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爲繼(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

-アシナアシナアシナ·12 アシラせずし此兄弟の事束鑑に詳なり。光盛の子を三郞左衞門泰盛と云。東鑑建長八年の記に見えたり。其子を遠江守盛宗と云。父子の靈牌府下實相寺にあり。盛宗の子大夫判官盛員、建武二年相模次郞時行に與力し尊氏將軍と戰ひ、歷越にて討たれたる事太平記に見ゆ。其子直盛若狭守と云(太平記卷三十一に芦名判官あり。此の人の事にや詳ならず)光盛よリ盛員までは其住所傳はらず。直盛至德元年府城を築き、部城と名け、城下の地を黒川と稱す。是城地の聞けたる始なり。其子彈正少弼詮盛(初左衞門尉と云ふ)と云人、應安二年田園を實相寺に寄附せしことあり。(寄附狀の寫今にあり。康曆二年寄附狀の寫も同寺に納む)其子御理大夫盛政の時は、應永の頃にて、天下兵亂の最中なれば此地にても北田新宮の裔等屢々職爭有て終に盛政に併せらる。其の子を三郞左衞門尉盛久と云。文安元年に卒す。盛久子無して弟盛信立つ。左近將監と云。寶德三年三月十八日に卒す。會津郡天寧村に慕あり。其子下總守盛詮立20猪苗代氏(諱を傳へず)叛臣を助て數度合戰あり。享德二年其事漸平ぐ。盛詮文正元年三月十四日に卒す。其子修理大夫盛高と云。明應三年伊達尙宗、其子植宗と合戰ありし時、盛高三千餘騎を帥て、出羽國長井(今の米澤なり)に至る。廿餘日の後事平ぎて會津に歸る。永正十四年十二月八日に卒す。實相寺に眞影殘れり。盛滋を出羽判官と云。永正十七年兵を出して、伊達植宗を援け最上兼義と戰ふ。大永元年二月七日に卒す。弟遠江守盛舜흥此時家臣松本新藏人、鹽田某等豬苗代に內應す。豬苗代氏(又譯を失ふ)來て域北八角宮に陣せしが敗績して松本鹽田と共に走る。河沼郡八葉寺の邊にて猪苗代の兵多く戰死す。享祿元年伊達植宗葛西氏を攻て其地を奪ひし時、盛舜加勞あリ。天文三年伊達、磐瀬、石川、諸將と勢を合せて岩城白川と戰ふ。天文二十二年八月二十一日に盛舜卒す。其子修理大夫盛氏は、芦名中興の英將にて兵勞强かりしかは、北條氏康、武田信玄も音信を通じて好を結び、仙道の請將白河の結城七郞義親、二本松の二本松右京亮義繼、田村の玄蕃尤〓顯、須賀川の二階堂遠江守盛義等皆其指揮に從ひしに、永藤四年大沼郡岩崎に城を築き、家督を子息盛興に譲て隱居す。然るに盛興天正三年二十九歲にて父に先て早世せしかば、(盛興は伊達輝宗の妹聲)盛氏再び黒川城に歸り、、軍務を沙汰し、二階堂盛義の子盛隆を盛興の後室に妻はせ聟養子とし、同八年六月十七日六十歲にて卒す。會津郡小田村に葬る。芦名氏の血脈此時に斷絕す。盛隆の時に及て、織田家の武感巳に盛にして、東國の諸將皆門下に拜趨せしかば、同九年郞等荒井萬五郞を使者として、駿馬一疋蠟燭千挺を贈る。此年盛隆三浦介に任ぜらる。一族金上兵庫盛備を勅答の使とし、黄金三十兩を献せしに盛備又遠江守に任ぜらる。同十二年累代の長臣松本太郞と云者、遺恨の子細有て六月十三日、盛隆舞樂遊覽の爲にとて城東羽黒山に登りし隙を伺ひ、栗村下總と云者を語らひ、黒川城を農取りしに、城下に在合し諸人大勢聽集り、盛隆も頼て下山しければ、松本栗村戰負て打死す。此年十月大庭三左衞門と云者、怨を含む事有て盛隆を害せしかば、家臣相謀て龜王丸とて當歲の子ありしを家督に立しかど、同十四年三歲にて天す。家臣又謀つて佐竹義重の次男平四郞義廣後盛重と改む)に盛隆の女を配し遺跡を相續せしめしに、義廣に從ひ來れる大提讃岐守、刎石駿河守、譜代の家老と權を爭ひ、家中不和になりたる上、猪苗代彈正盛國、義廣に抜き伊達正宗に內應す。政宗遠に猪苗代城に入る。義廣盛國を退治し政宗の軍勢を追拂はんとて、同十七年六月五日耶麻郡磨上原に出馬し合戰に及びしが、終に敗績し、長臣富田美作守、平田左京亮入道、同周防守等、政宗に心を通じければ、黑川城を保ち兼、同十月芦原越より白河に出て常陸國に通る」と。太平記卷六に葦名判官、卷十三に葦名判官入道、文安以來の御番帳に蘆名修理大夫盛重、また白河應永七年の文書に葦名次郞左衞門尉満盛、鎌倉大草紙に蘆名盛久等見ゆ。又天正の頃葦名小太郞盛保なる者あり。稻村館に據る。蘆名最後の主義廣は佐竹義宣の弟、又盛重とも義勝とも云ふ。天正十七年六月邑を失ひて後常陸に歸り、十八年秀吉より江戶崎四萬五千石を奥へらる。後慶長七年佐竹秋田移封の際、所領沒收佐竹家臣となる。葦名氏の血統は伊達藩臣葦名氏に傳はる。此の家は盛滋が盛舜を養子として後に生みし子、民部盛卒が後なり。針生庄に住み針生氏と稱す。其の子小太郞盛秋、其の子丑松盛信、秀吉より龍ケ崎一萬八千石を賜ふ。関ヶ原役後封を失ひ伊達候に仕ふ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)2頁)

系図・系譜

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