熊野(9)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
9新宮社家新宮は延喜式に熊野早玉神社(七)と見ゆる大社にして、其の社家は、續風土記新宮神職條に「上古は宇井鈴木の二氏及び榎本氏、世々當宮に奉仕せし、奈良の朝、永興禪師といふ高僧·此の地に來り、佛說を唱へしより後、僧徒等三山を尊び、熊野の地の噴路を經て執行すること起れり。遂に此の事·朝廷に聞え、宇多上皇御幸ありしより、更に諸山の衆徒大に崇〓し、參詣せざるものなし。寛治四年、白河上皇御幸の時、法印權大僧都增譽扈從して、御專師を動めし功を以つて、熊野三山撿校職に補し、三山の事を傳奏せしむ。是れ三山撿校の始めなり。其の時、又執行の僧長快といふを別當に補し、法橋に叙して、衆徒、神官、社儈等をして、各別當の令に從はしむ。是れ熊野別當の始めなり。長快·新宮に住して、三山の政務を司どる。其の長子を長範といふ。長範の子を行範とい..新宮法眼と稱す。其の裔·世々新宮に住して、別當に補任せしを以て、新宮別當といふ。又長快の四男を湛快といふ。湛快(介)の子を湛增といふ。始めて田邊莊に住す。其の裔·世々田邊に住して別當に補任せしを以つて、田邊別當といふ。大低新宮行範の奇と代る〓〓補任せり。因りて二家·別當職を爭論せし事等あり。今も兩所に別當屋敷の名残れり。本宮にも別當屋敷といふ地あり。また古文書に本宮別當といふ目あり。本朝世記、仁平三年三月一日除目の條に、『本宮權大僧都有觀(一切經供養御等師)、傳律師行政(御先達)、法橋湛實(別當滿快讓)、長僧(同速.樂器修理功』と見えたり。今按ずるに、田邊別當溝增が文書に、本宮神領の事をいへれば、田邊に居て本宮の事を掌れるにて、本宮、田邊の二所·同流なるNb南北の亂に、別當補任の式廢絕して、二家の嫡家詳ならず。其の枝流·數十家に分れ、本國及び諸州に散在す。又別當の衰ふるに至りて、上綱の職あり、廷元以下の文書に多く見えたり。其の職·別當程にあらざれども、衆徒、神官等の上に立ちて、事を掌どるに似たり。天正ゆで、七上絹あり。堀内氏の盛なるに至りて、上網の職も亦磨親せり。今の神職は、衆徒、神官、社僧と三に分れ、各十其の職を勤む。大低皆古時紳職の後裔なリ」と見ゆ。又三方社中條に「當時、社家三に分れて、衆徒、神官、社僧と號し、是れを總べて三方社中と稱す。衆徒、神官は、やゝ古來よりの名目なるべけれども、其の稱·建武の文書に始めて見えたり。神官の職は、每日一人宛、神前の廳に出仕して詰番あり。一番より十二番まで次第す。文 亀二年の文書に、神官の名目を載せて『鮒田一大夫高政、石垣二大夫行包、四之三大夫高清、楠木四大夫廣治、五番頭石垣撒包、六番頭鵜殿(名缺)、七番頭羽山忠基、八乖頭拳地賴久、九番頭泰地實種、十番頭橘木正治』とある、番頭是れなり。此の時、二番關たりしかば、十番迄にて次第せしなり。又十二番頭の外に、在廳と稱するもの一人あり。正應の文書に、石垣在廳重包·明德の文書に、石垣在廳宮主貞包などある、是れなり。正應の文書に、圃宜宮主高實といふ人あり。又神主宮主と連ね稱せる文書あり。宮主は神主の一腐の稱なり」といふ。衆徒は七人、「石垣主稅、石垣雅樂、石垣勘解由、石垣外記、永田大膳、石垣外記弟長田數馬、鈴木又左衞門(鈴木氏本家と云ふ)。」次に神官は「泰地五郞兵衞、泰地上總、秦地左馬之助、拳地左內、字井大監、宇井要人、宇井大膳(要人は熊野の著姓字井輩の本家。大膳は大監の分家なりといふ)、鵜殿右馬之亟、鳥居兵庫之助(鳥居法眼の後)」なり。社曾は十五人、「横山覺泉院、鈴木立光坊、楠東賣坊、橫山良源坊、鈴木大乘坊、鈴木眞定坊、榎本大圓坊、橫山良泉坊、字井圓隆坊、榎本林昭坊、石垣專勝坊、榎本慶蔵坊、神倉兼動〓信·宇井明來坊。」此等の氏の事は各條を見よ。10那智社家那智神社は國帳に「從四位上飛龍神」と見ゆるものかと云ふ。其の社家には、潮崎、汐崎等あり、高倉下命の裔と云ふ。續風土記に「那智山社僧·潮崎(平氏)、米良(熊野別當)、鹽崎(平姓)、橋爪(源、新宮十郞行家後)、四(平姓?)」等を擧ぐ。各條を見よ。11熊野別當寛治四年、白河院御參詣の時、長快·始めて別當に補せらるゝ事、中右記、及び釋家初例抄等に詳かなり。然るに今社中傳ふる所の別當次第記といふ書には、弘仁年中、初めて別當職を置くと記す。其の書は、第二十九代定湛の時書す所にして、定湛は、後深草院正嘉二年補任せし人なり云々(續風土記)。信ずべからず。院政期以後、熊野三山の繁榮して、天下無比の觀あるや、熊野別當の勢力も頗る偉大にして、一方·兵馬を養ひ、南海に雄視す。從つて中央の貴族なる藤原氏、並に武家の棟梁なる源家、平家とも密接なる関係を有す。平家物語劔卷に「(源)爲義は腹々に、男女四十六人あり。熊野にも女房あり。娘をば、たつたはらの女房とぞ申しける。自河院熊野御參詣の時、此の山には別當ありやと御尋ねありけるに、未だ候はずと申しければ、爭でかさる事あるべきとて、別當の器を尋ねらる爰に、うい黨、すゝきの黨と申すは、權現摩伽陀國より、我が朝へ飛び渡リ給ひし時、左右の翅となりて、渡りたりし者なリ。之に依りて、熊野をば我儀に管領して、又人なくぞふるまひける。折しも權現の御前に花·備へて籠りたる山伏を、別當になすべき由、すゝき計ひ申しければ、我身其の器量不足とて、固辭し申しけれ共、重ねてひらに申しければ、押して別當になされけり。〓眞·別當の始なり。別當は重代すべき者なり。聖にて叶ふべからず、妻を合せよとて、誰かはあるべきと尋ぬるに、爲義が娘、たつたはらの女房、よかるべしとて、〓眞にぞ合せける。爲義·傳へ聞きて曰く、『爲義が聟には、源平兩家の間に、弓箭に携はりて、秀でたらん者をこそと思ひつるに、諸寺諸山の別當執行といふことは、好きもあり、惡しきもあり。行總群に拔けぬれば、左樣の官にも、職にも、なるとこそ聞け。行末も知らぬ者に、押へて合すらんこそ不思議なれ』とて、音信不通し、不孝の娘にてぞありける。抑も爲義が傳へ持ちたる二の劔、終夜吼ゆ。鬼切吼えたる音は、獅子の音に似たり。蜘蛛切が吠えたる音は、蛇の泣くに似たり。故に鬼丸をば獅子の子と改名し、蜘蛛切をば吼丸とぞ號しける。かゝる處に源平たてわけて、合戰あるべき由聞えたり。洛申騷動新ならず。如何なる達國、深山の奥までも、聞えずといふ事なかりけり。〓眞別當是を聞きて、我が身は、不孝の者なれども、かゝらん不孝も許さるべ時·力をも合せてこそ、けれとて、常住の客信、山内の惡黨等、上下を嫌はす、催し立てゝ、一萬餘騎の勢にて部に上りけり。人々是れを見て、是は如何なる人やらん°和泉紀伊國の間には、かやうの大名あるべしとも覺えずとて、委しく是れをたづぬれば、爲載の聟·熊野の別當〓眞なり。舅の方人のためにとて、上りたるよしいひければ、爲義も是れを聞きて、『氏種姓は知らねども、甲斐〓〓しき者なりけり。如何なる人の一門ぞ』と尋ぬれば、『實方中將の末孫なリ』と申しければ、さては『爲義が下すべき人にはあらざりけり。今まで對面せざりけるこそ愚なれ』とて、請じ寄せ、始めて對面す。志のあまりにや、重代一具の劔を取り分けて、吼丸を聲引出物にぞしたりける。〓眞別當·此の劔を得て、是れは源氏重代の釼なり。〓眞が持つべきにあらずとて、權現に進ゐらせけり、」云々と。また「其の後、(範頼、義經)、平家追討のために、攝津國一の谷に發向する處に、熊野別當〓眞が子息五人をば、本宮、新宮.那知、若田、田邊、五箇所に分けて置く。此の中に、『何れも長じたらん者を、別當を權がすべし』と遺言したりけるが、其の比は田邊の湛增長じたりければ、別當にてぞありける。湛增別當·申しけるは、『源氏は我等が母方なり。源氏の代とならん事こそ悅ばしけれ兵衞佐賴朝も、湛增がためには親しきぞかし。其の弟範〓.義經は佐殿の代官にて、木曾を追討し、平家攻に下らるゝよし、その聞えあ00源氏重代の劔、本は膝丸、蜘蛛切、今は〓丸とて、爲義の手より〓眞得て、權現に進らせたりしを申し請けて、源氏に奥へ、平家を討たせん』とて、權現に申し給ひて都に上り、九郞義經に渡してけり云々」など見ゆ。12熊野別當の出自については、尊卑分脈に「師尹-定時-實方(陸奥守、右近中將)-長快(熊野別)-湛快熊野別)-湛增(實は源爲義子)-湛全(承久に京方となり、一方の大將を賜ひて、合戰を致すにより、関東に於いて誅され了る) -湛諾-源湛」と載せ、又熊野別當系圖に賣方(左中將)-泰敦(治三十二年、長元三年、後一條御字)-快眞(補別當) -長----------------------------湛仁-長增創當注印小倉吉
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)