熊岡(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
和名抄、讃岐國三野郡に熊岡〓を載せ、久萬乎賀と註す。當國の豪族に熊岡丹後あり、炭所惣左衞門の女婿たりき。全證史等に見ゆ。又信濃にも此の氏存す。「實景「實景直重(武藏熊谷)文言真(三河熊谷)と載せ、熊谷系圖も、殆んど之と同樣にして、直貞の條に「始めて熊谷次郞大夫と號す」と註し、又直實の條に「次郞、法名蓮生、生年辛酉、承元三年九月十四日午刻、熊谷に於いて病死、年八十四歳」と註し、末文に「直貞·初めて熊谷と號す。名字の子細は、直貞の父盛方は北面の侍たり。勅勘を蒙りて相果つ。直貞二歲の時、乳母·夜に紛れ都を忍出で行きしが、内々武州に一家の衆有りと聞き及び、彼の息を表の下に隱し、武州小澤太夫が所へ尋ね、落ち着きて爰にて年月送ると云ふ。又成木大夫が聟と成り、十六歲迄は不知行也。爰に武州大里郡の内に熊一つ之れ有り、往來の人を取る事·其の數を知らず、永治年中·依然禍をなす處に、武州四の一家(私黨)一門寄リ集まりて、此の熊を害せんと談合す。然れば人數を以つて狩する事數日也。或はきつなをかけて待ち、色々樣々なりといへども、更に其の甲斐なし。重ねて一類集りて申しけるは、我と思ふ者一人でゝ、此の熊射害せ、他家に害させんは一家の耻辱なり。「三百石、熊井九直國(安藝熊谷)備中守一類の中に、此の熊を射るものあらば、私の黨の旗頭に成し、熊谷三百町·知行すべしと堅く之を定む。直貞·此の事を聞きて、心に思ふ樣、我少年にして當國に落ち下り、今日に至りて案堵なし、是れこそ幸よと思ひ、是非此の熊害さむと雨降り、風□き墓、若黨一人も相具せい、我が身の死する事を更に顧みず、仕得事ならば、私の黨の旗頭にならん。若し仕損ずるならば、勿論覺悟の前と思ひ切りて、熊の住所へ忍び行き相待つ所に、案の如く熊懸け出で、直貞にかゝる處を、矢取つて打つがひ、矢つぼを指し一丁寸、猶ほ掛る處を太刀を以て隨へけれども、闇かりければ、我が家に歸り、明けてかく申す。一家一類·肝をけし、兼ねての約なれば、相違なく案堵す。玆に因りて初めて熊谷次郞大夫直貞と號すと。直正直實二人の子、直正は三歲、直實二歳にして、父直貞十八歲にして逝去す。兄弟共に成木太夫が子·久下權守が所にて養ひて、十六騎武者の內、直實と有り」。云々と見えたり。また熊谷寺緣起にも見ゆ。此の話は本より地名附會の傳說と思はるれど、熊谷氏が大里郡熊谷〓より發祥せし氏にして、私黨と関係深き事は、東鑑に、「壽永元年六月五日、熊谷次郞直實は、朝夕恪勤の忠を勵むに睡ざれど、去る治承四年、佐竹冠者を追討するの時、殊に動功を施す、其の武勇を感じ給ふに依り、武藏國舊領等·直光の押領を停止し、之を領掌すべきの由·仰せ下さる。而して直實·此の間在國、今日參上せしめ、件の下文を賜ふ。『武藏國に下す、大里郡熊谷次郞平直實·定補するところの所領事。右件の所、且は先祖相傳也。而して久下幡守直光·押領の事を停止せしめ、直實を以つて地頭の職と爲し畢んぬ。其の故·何となれば、佐法毛四郞、常陸國奧郡花園山に橘籠リ、鎌倉より責めしめ給ふ時、其の日の御合戰、直實·萬人に勝れ前懸して一陣を懸け壞り、一人當千·高名を顯はナロ其の勸賞として、件の熊谷〓の地頭職に成し畢る。子々孫々、永代·他の妨げあるべからず、故に下す。百姓等宜しく承知すべく敢へて違夫すべからず。治承六年五月三十日』to其の後、又建久三年十一月二十五日條に「白雲飛散、午以後醫に屬す。早旦熊谷次郞直實、久下權守直光と御前に於いて一決を遂ぐ。是れ武藏國熊谷、久下、境の相論の事也。直實武勇に於ては一人當千の名を馳すと雖、對決に至つては、再往知十の才に足らず。頗る御不審を貽すに依りて、將軍家度々尋問せしめ給ふ事あ!。時に直實申して云ふ。此の事、梶原平三景時、直光に引級するの間、兼日に道理を申し入るゝの由か。仍りて今直實類りに下間に預る者也。御成敗の處、直光定めて眉を開くべし。其の上は理運の文書要なし、左右する能はずと稱し、縡未だ終らざるに、調度文書等を卷き、御簾中に投入れ座を起つ。猶ほ忿怒に堪えざりけん、西侍に於て、自ら刀を取て醫を除き、詞を吐いて云ふ、殿の御侍ヘ登りはて云々と。則ち南門に走り出で、私宅に歸るに及ばずして逐電す。將軍家·殊に驚き給ふ。或る說に四を指して駕を馳す、若くは京都の方に赴きし敷云々。則ち雜色を馳せ遣はし、相摸、伊豆の所處、井に箱根、走湯山等に於いて、直實の前途を遮り、通世の儀を止むべき由、御家人、及び衆徒等の中に仰せ遣はさる直光は直實姨母の夫也其の好みに就て、クマカヘクマカへクマカヘ三三五 直實·先年直光の代官として、京都の大番を勤仕せし時、武藏國の傍輩等、同役を動め洛に在り、此の間に各々人の代官を以て、直實に對し無禮を現はす。直實其の製憤を散ずる爲、新中納言知盛卿に屬L、多年を送り畢んぬ。白地に關東に下向する折節、石橋合戰あり、平家方人として源家を射ると雖、其の後、又源家に仕へ、度々の戰場に於いて動功を抽んづ云々。而して直光を弄て、新黄門家人に列するの條·宿意たるの基、日來境の違亂に及ぶによる云々、」と見え、又大里郡に熊谷〓のあるより推察するを得ん。久下氏は私黨中の大族也、クゲ條を見よ。又一本熊谷系圖、直貞の譜に「始めて武州大里郡熊谷〓を領す云々。小澤太夫の家に居り、後に成木太夫の婿となる」と見ゆる小澤太夫、成木太夫とは、私市系圖に見ゆる小澤氏、成木氏なるべし。熊谷氏が果して系圖に見ゆる如く、桓武平氏にて、北條氏と同族なりしか否か。又直實の父直貞に至り、初めて此の地方に來たりしものか、又は以前より此の地の土豪たりし關係より、此の地に來たりしものか、共に明白ならざれど、直貞は此の黨の小澤氏に養はれ、成木氏の婿になれりと傳へ、又直實と此の黨の久下氏との関係は、東盤に見ゆる如くなれば、熊谷氏も私黨の一にて、此の地方の土豪たりしかば、盛方の死後、直貞は一族の手に養はれしものと見る方、穩當ならん。されど諸系圖は、殆んど皆熊谷を北條と同族とす。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)