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火山四局

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

と見ゆ。後南部に居り下山に移り東西河內領一圓及び穴山村をも兼領す。紋三花菱。甲斐國志巨摩郡下山村穴山城條に、「本國寺の境內及村居に係リ、處々に殘湟荒壘存し調馬埓の跡等あり、寺境に八幡宮の社を建て穴山八幡と稱し祀る、此處は居館なるべLo寺前を大庭町と云、本域は四の山上にあり、今に城山と呼べり。寺記に下山光基の居址卽ち是なりと云。穴山氏版築の時舊基に據るや否を知らず、(秋山光朝の男下山小太郞光重なる者あり。光基は日蓮の書に記す所なり。)今の傳ふる所は穴山氏の城城なリ、穴山は武田の令族感望ありて驕殷なり。甞て京師の神社佛區の名號に准擬し、城邊に數多の寺社を建立して繁榮言ふばかり無かりしとぞ。天正十五年穴山勝千代天死し子孫斷絕して居城廢せり」と。また八代郡高察村小山城條に「地を小山町と字す。岡村に近し通岐四達の邑なり、城墟は高爽の地に倚り、殘溝荒壘乾として備はれり。傳云穴山伊豫守信永之に據る、或時南部某と云者、島坂越より攻寄せけるに、信永も花鳥山に出張り相戰ひしに利あらずして小山に引入り、守禦の謀を廻らしけるに、敵は勢に乘し競撃つこと急なれば、信水保へ兼てアニ-アニハ三六域内を免れ出で二宮村常樂寺まで落行きけるに、兵も疲れ馬も殪れければ詮方盡き、終に此にて自害せりと云。按ずるに信永は穴山信懸の次男信分には孫なり、水正の頃は信懸既に南部の領主にて彼處に住したリ。信永は分家して小山を相續せしにや、其男友勝は永正八未年四月十六日天す。其後の城主未だ所聞なし。又南部某なる者も審ならず、或は云天文中南部下野なる者改易の事軍艦に見えたり、其人の居所は記さず、疑らくは下野卽ち小山を攻とり住せしならんか」と見ゆ。(武ロ九六)阿爾アニ法隆寺良訓補忘集に阿爾桑麻呂と見ゆれど出自を詳にせず。安仁アニ備前國邑久郡安仁神社あり。阿仁アニ羽後國北秋田郡阿仁より起る。永慶軍記に阿仁播磨守なる者を載せたリ。恐らく加成播磨守の事にして、阿仁嘉成氏の一族ならん。カナリ條を見よ。

系図・系譜

関連論文

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