瀨上(2)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
2桓武平氏伊勢國鈴鹿郡關より起る。當國の大族にして、一族鈴鹿、河曲二郡に榮ゆ、稱して關一黨と云ふ。伊勢平氏の一にして、其の名·古くより著はるれど、系の出づる處は鮮明を缺く、從つて敷說あり。されど普通には、重盛の子資盛の後とするが故に、先づ其の說を載せ、セヲカセノヲカ江戶の名醫に、次に黒說を述べん。先づ勢州四家記に「關の一黨とは、六波羅太政大臣平〓盛公の後胤也。先祖小松内大臣重盛公·天下を治め給ふ頃、次男小松新三位中將資盛卿·十三歲の時、殿下乘合に依りて、勢州鈴鹿郡關谷久我と云ふ所へ六年の間流さる。其の時一子あり、源氏の世となりて、北條家是を預リ命を助け、盛國と號し、關東に死去せり。其の子關左太夫將監實忠、始めて關谷を頷知し、關と壁す。其の苗裔関四郞·足利尊氏卿に仕へて繁昌す。關の三家督といふは、鈴鹿郡亀山、河曲郡神戶、鈴鹿郡峰、何れも國家也。各々侍地下人共、軍兵千の大將也。同五大將といふは、鈴鹿郡國符國家、鹿伏兎関家と三家督となり。何れも五百の大將なり。関勢與力五千人也。此の五家は、各足利家の侍也。關家幕紋は上羽の蝶也」〓せ、又中古日本治亂記に「建仁四年の夏、盛國が嫡子左近將監實忠が代に成り、初めて勢州鈴鹿郡關谷を賜はり、關左近將監實忠と號す。幕紋には上羽蝶を付けてけり。是れ〓盛の紋とかや。其の後、時政が婿となり、鎌倉に居住せり。其の弟·平の三郞左衞門尉盛綱は、北條が執幅す。北條天下の執事と號して、恣に政道を執リ行ひ、武威逞しく成りし時、彼の盛綱も、始めて關を改めて、長崎平左衞門尉と名乘りけり。北條高時入道崇鑑が時に至りて、長崎新左衞門尉高資と云ひしは、此の盛綱が末葉なり。關と長崎とは兄弟たるに依りて、共に鎌倉に居住して、北條に奉仕しける。元弘三年五月、高時入道滅亡の時、左近實忠六世の孫·關四郞盛政と云ふ者、關東より勢州に上り、關谷龜山に住しけるに、彼の所の者共は、元來主君の好みに依りて、盛政を賞翫せり。其の後、盛政·足利尊氏將軍に相屬し、關谷を安堵して、子息餘多を儲けたり。嫡子關太郞盛澄とて、神戶に置く、盛澄·入道して柏巖と申しけり。二男は國府に置く、國府次郞盛門と云ふ。三男を龜山に置く、龜山三郞盛繁と云ふ。四男を鹿伏兎に置く、鹿伏兎四郞左衞門尉盛宗と云ふ。五男は峰に置く、峰五郞政實と云ふ。是れ皆尊氏の味方として忠戰し、鈴鹿、河曲等の諸郡の中にて、所領を賜ひ、子孫大いに繁昌せリ。去れば河曲、神戶、此の三家の領地、凡そ四〓、軍兵六百人、馬上百騎、小人四百人、合せて一千人の大將なり。又國府、鹿伏兎、兩家の領地は十二郷、其の內國府の一〓は、奄藝郡白子にあり、又鹿伏兎家の一〓は朝明郡富田にあり。兩家の軍兵三百人、內騎馬五十騎、小人二百人、合せて五百の大將也。其の外五家興力合せて千人、關家の軍勢、合せて二千人也、」とあり。又關家筋目等には「〓盛-重盛-資盛(鈴鹿郡關谷久我庄に流罪)-平太郞盛國(關左近大夫將監、關谷大夫、民部承、建久中·夢庵と號す。久我庄白石谷に卒す。一に鎌倉)-太郞實忠(左近將監、又左近大夫將監、建仁四年關谷廿四郷地頭職を賜ふ)と。而して、その弟平三郞盛綱は、北條義時に仕へ、左衞門尉に任ぜらる、義時泰時二代の内執政、此の時、關を改め、長崎と名乘る」と載せたり。ナガサキ條參照。その後、「長崎新左衛門尉高資、長男二郞高重、二男孫四郞高盛、その子同四郞盛政(高時·滅亡の時、勢州に迯げ、關の谷龜山に蟄居し、世の聞えを恐れて、長崎を本名にかへり、關四郞盛政と云ふ。そセキセキセキNH2 の子に關太郞盛澄、神戶次郎藏人賴資、峰三郞左衞門尉盛重、鹿伏兎四郞左京亮賴盛、國府五郞爲賴の五人あり、こル関五家の起原」にして、其の嫡流は「盛澄-太郞左衞門尉重資-民部亟資政-宮內左衞門尉頼賣-(二男)下野守資信-安藝守盛信(入道萬鐵、亀山城主)-右兵衞尉一枚なりと云ふ。而して藩翰譜も、ほゞ同樣にて「關長門守平一政は、太政入道〓盛が嫡男、小松内府重盛の二男、新三位中將資盛の末葉たわ。初め資盛十三歲にして、殿下乘合の事に依りて、(殿下乘合の事とは、源平盛衰記卷三に出づ。蓋し嘉應二年、攝政基房公の通行に、資盛無禮の振舞ありとて、衞士に叱貴せられしを遺恨として、攝政殿下を羞しめしなリ)、父の不與を蒙リ、伊勢國鈴鹿郡久我といふ所に追下され、十八歲の頃までおはせしが、此所にて一人の男子を設けられ、盛國とぞ申しける。其の後、源氏の世となりても、盛國いまだ幼なければ、北條時政にぞ預けらる。盛國成人の後二人の男あり。兄は關左近大夫等監實思、伊勢の國鈴鹿郡團谷の地頭職を賜はり、鎌倉に住して北條家に屬す。第は長崎三郞左衞門尉盛綱、北條が家の執事として、それが子孫世々関東に勢ありしかば、關が子孫も關東に伺公す。元弘の頃、相摸入道高時が一族亡びし時、實忠が六代の孫關四郞、伊勢の國に歸りて、關谷に忍び住む。此所の地下人等、昔の好み忘れかねて、主君とぞ仰ぎける。其の後、足利殿の御家人に召きょうりつ四郞數多の男子あり、嫡子は當國神戶に住し、二男は國府にあり、其の餘、亀山、鹿伏兎、嶺等に住す。仁木義長謀反の時、關が兄弟·將軍家の御方たるに依りて、鈴鹿、河曲等の郡にして、各動功の賞を賜はる。是等が子孫當國に繁昌す。中にも北方三人と聞えし關は、當流の嫡家として鈴鹿郡亀山に住し、神戶は河曲郡にあり、嶺また鈴鹿郡に在り、皆足利殿の御家人たり、」と見ゆ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)