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漢人

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

漢土よりの歸化族なりとの傳說なれど、其の多くは韓半島を經由して來朝したるが如し。就中有名なるは倭漢氏族類の歸化なりとす。卽ち應神紀二十年條に「倭漢直祖阿知使主、其子都加使主、並に己の黨類十七縣を率ゐて來歸す焉」また寶龜三年四月紀に「正四位下近衞員外中將兼安藝守勳二等坂上大忌寸苅田麻呂等言檜前忌寸を以つて、大和國高市郡司に任られたし。元由は先祖阿智使主、輕島豊明宮馭字天皇の御世、十七縣人夫を率ゐて歸化す。詔して高市郡檜前村を賜ひて居る焉O凡高市郡内は、檜前忌寸、及十七縣人夫、地に滿ちて居る。他姓は十にして、二のみ焉云々、」また延解四年六月紀に石衞士督從三位兼下總守坂上大忌寸苅田麻呂等上表して言ふ、臣等もと是れ後漢靈帝の曾孫、阿智王の後なり。漢の祚、魏に遷り、阿智王神牛の〓により、出でゝ帶方に行き忽ち賓帶の瑞を得、其の像宮城に似たり。爰に國邑を建て其人庶を育つ。後父兄を召し告げて曰く、吾聞く、東國聖主あり、何ぞ歸從せざらん乎。若し久しく此處に居らば、恐らく覆滅を取らむ。卽ち女第迂興德、及び七姓の氏を携へて、歸化來歸す。是れ則ち、譽田天皇天下治賜ふの御世なり。是に於いて阿智王奏請して曰く、臣舊居帶方に在り、人民男女、皆才藝あり。近きは百濟高麗の間に寓し、心恢猶豫、未だ去就を知らず、伏して願はくは、天恩使を遣はして之を追召せん。乃ち勅して臣等八腹の氏を遣はし、頭を分ち發遣す。其の人民男女、落を擧り、使に隨ひ盡く來リ、永く公民と爲る。年を積み代を累ね、以つて今に至る。今諸國に在る漢人亦是れ其の後也」と0猶ほ坂上系圖引用姓氏錄第二十三卷に曰く、阿智王、譽田天皇(證應神)の御世、本國の亂を避け、母並に妻子母弟迂興德、七姓漢人等を率ゐて歸化す。七姓とは第一段(古記に、段光公、字は哥等、一に員姓と云ふ)是れ高向村主、高向史、高向調使、評首、民使主首等の祖也。次に李姓、是れ刑部史の祖也。次に自郭姓、是れ坂合部首、佐大首等の祖也。次に朱姓、是れ小市佐、秦、宜等の祖也。次に多姓、是れ檜前調使等の祖也。次に皂姓、是れ大和國字太郡佐波多村主、長額部等の祖也。次に高姓、是れ檜前村主の祖也。天皇、其來志を矜め阿智王を號けて使主と爲し、仍りて大和國檜隈郡4綾小路氏出自詳かならず。

寛政重修諸家譜(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『寛政重修諸家譜』(堀田正敦編、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[268]:116頁

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