コンテンツにスキップ

源義幼名

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

四八七三 又上伊那郡伊那町山寺に林氏居跡あり。天文の始め、林式部が居館を構へじ地にて、郷士たり。弘治年間、武田氏打入の時討死し、他、五貫」又飯島氏附屬の衆に治部は民籍に降る(郡記)。「飯田附屬椰士林源左衞門·廿「林三左衞門·十その貫」など見ゆ。次に筑摩郡筑摩村惣社八幡宮の大祝別當監物良本あり、職に此の氏あり。萩霜、又後世當國國學者に林龜岡と號す、景樹81の門也。甲斐の林氏前數項參照。又巨摩郡に林小兵衞あり、武田家に仕ふ、その子彦六BBその他、林平六等、國志に見ゆ。82なほ林戶條參願。駿河の林氏藤原性なりと。丸に抱著83荷.鶴を家紋とす。鶴見氏と關係ありと云ふ。遠江の林氏丸に桔梗等を家紋とす。引佐郡の名族にして、卷84豐、振城三河の林氏次に九生六郞氏光也(手振村)第七十項參照。の城主は林五郞左衞門義(二葉松)賀茂郡手と。又第七十八項流も當國の林氏也。また實飯郡御油城(御油町)は、二葉松に「山下源助、林孫八·父道清は始め其澤組年中、衆、後神君へ仕官」稻石五郞蔵光朝·紀州本宮より來と傳へ云ふ「永享り.御油村に居りて林氏と云ふ。子孫林孫八郎光街に至る」又般樂郡平井村屋鋪城(平井村)の城主はノ等の條參照。soイナイシ、カ林雅樂、次に彥坂九兵衞也と。双瀨村古屋舗は弘治年中、林左京·居住せり。又幡豆郡に林新兵衞あり、尾の城主に林紀伊守信芳あり、を見よ。又當國林氏に藤原姓、脇村出生也。第八十項家紋抱著又四荷、林の字くづしと云ふものあり。85林朝臣姓熱田神宮中稿調宜(祠官、神家)の一にして、熱田宮萬記に「林朝禰、紀氏分岐也。〓学元天皇皇子大忍信命の後、當氏を以つて譜代相續」武內宿又尾張志に元天皇の皇子忍信命裔也と府志に云へと載せたり。「林朝臣、氏人十家なり、孝86諸氏は此の族也。り」と。良峰氏族林、林隆、これも尾張の林氏にして、四小路、橋小路等の良峰氏系圖に「立木田大夫高義-高光(四度使〕-右衛門大夫高重(橘高重と稱す。後堀河隆御字)-五郞左奮門尉高綱(號林歌人、尉忠高、後三條院勅旨-田侶主)弟實相院(4.7少輔阿闍梨、-左兵衞AP譽僧正御門弟)」と見ゆ。87第八十八項等を見よ。年九月、尾張の林氏信長·長島一換を攻擊、前二項、信長譜に及び第七十項、「天正元林新三郞(佐渡の子)·一揆と力戰して死す」とまた信長記に「かろと島の寄手には、織田上野介殿、渡守信勝田信秀に仕へ、弘治元年(天文廿年とも)、(通勝)林佐渡守」は、もと美濃の人、など見ゆる佐織名古屋城主となる。柴田勝家と共に信長を廢して、信行を立てんとせしが成らず。後信長に仕へて慶々功あり。その男に新又信雄の家臣に林與五郞あり。三郞光時と佐介光之とあり。天正十一年、神戶與五郞と稱す。の城を林與五郞に給はる。伊勢神戶城を陷れ、勢州四家記に神戶氏を嗣ぎて同五月、(昭和林與信雄朝臣の味方となり、五郞·小島兵部少輔と戰ふ。し、神部奥五郞と號す。信孝の御臺·與林與五郞を聟と神戶友盛·朝臣の幕下なりし也」と。五郞室となりぬ。同國府治郞兵衞も信雄十二年に至り、蒲生氏佛等に攻められて尾張に走る。丸に抱著又當國中島郡林解ありて、織田氏分限帳に「尾州林郷、田百八十貫」と舊拜師髴の地也。この地より起れるもあらん。又愛知郡菱野城(菱野村羽根屋敷)の城主は張州府志に「林次郞左衞門」とあり。山田氏の後を承けて城主となりしものか、又尾張志に「荒子村の人林大學頭(助)」を載せたり、第六十四項を見よ。又春日井郡沖村に林氏の城あり、尾張志に「林主計の城跡」と見え、又海部郡の豪族林奥三兵衛の宅跡は、戶田村にありと又津島邑林宗兵衞など多く見え、又津島天王社神樂方に林氏存す。88美濃河野族第四十項と同族なれど流を異にす。河野氏系圖に「通村·文亀元年、邊州安八郡林村に居す、是より始めて林と號す。此所·上林、中林、下林、此の三ヶ村を合せて林と云ふ」と。又「豫州の稻葉·濃州の林とに紛れ、此の比、稻葉家·盛なるに依りて、藤原の稻葉、林も、越智氏に紛るゝ者あるに依りて、是を驗す。越智の林は、家紋割若荷丸、二引なり。是を以つて知る可き也。藤原の稻葉の通名四郞、諱には光、同林·通名五郞か、六代諱は行か、又〓」とあリ第七十項、及び稲葉條を見よ寛永系圖に「元は南部と云ひ、正利に至り林に改む」と云ひ、家譜には「河野四郞通信の末裔·駿河守通村·安八郡林村に住せしより稱號とす」と云ふ。又河野系圖に「稻葉七郞通弘-右京亮通則-七郞左衞門通乗-新五郞通村(通次、佐渡守、林之祖)」と載せ、又「(通村納男)通安(新左衞門)-(同)通忠(新三郞、妹同女子は大河内源左衞門重一の妻と)- (通安子)通勝(佐渡守、初め新五郞)、弟(同)通具(美作守、初め新九郞)」to又「(通忠の子)通政(新三郞) -(通政子)某(市助、母は林通勝の女)、第(月)正三(林宗兵衞、通勝養子、一本に母は大橋清兵衞重長の女)、妹(同)女子捨子、松山舩江左近大夫貞直の妻)」と載せたり。又一本に「林左近の嫡子林佐渡守正長-林玄蕃(永祿五年、輕海夜軍に戰死)、弟林宗兵衞正三(天正六年四月三日死)-林市助(稲葉兵庫頭重通の養子) -稻葉佐渡守正成(二萬石、室春日局)と。「當國本巢郡十七條城は享祿中、林駿河守政長·之を改築し、二男惣兵衞まで在城す。政長は元亀三中年十月二十五日に卒す。甲州勢と夜合戰のありし時、政長嫡子玄蕃亮は討死し、二男惣兵衝は落去す」to林市介長正(長政)、林宗兵衛正三(後に豐後守)、稍葉佐渡守正成等の事は、大橋津島、稲葉等の條を見よ。又香宗我部記錄に「齋藤内蔵介利三の息女·林八右衞門え嫁す、是れ春日局也」と。又新撰志、十七條古城墟條に「享祿年中に至り、林佐渡守正長(林左近の嫡子なり)·改め築きて居住す。其の嫡子林玄蕃·永祿五年輕海の夜軍に戰死す。正長の二男林宗兵衞正三まで、こゝにありて、正三·天正六年四月死し、法號を寬月宗本大禪定門といふよし名細記に見えたり。正三の子林市助·稻葉兵庫頭重通の養子となり、稻葉佐渡守正成と稱し、當將軍家に仕へ奉り、二萬石を領す。其の妻大猷院殿の御乳母となり、春日局と號す。其の子稻葉丹後守正勝·御老中となり、相摸の小田原八萬五千石を領す。二男(正勝の弟也)·稻葉七之亟正定·名古屋に仕へ奉り、千石を賜はり、當村を領す。正定の孫六郞右衞門病死して嗣子なく家斷絕す」とあり。ハヤシハヤシハヤシ同八王 又船木庄美江寺城は和田氏の居城なりしが、後十七條の城主林左近が嫡子林土佐守正長住せりと。又「十八條邑住人林酸河守正通入道道慶」など見ゆ。又大野郡〓水邑の〓水城は「天正十二年、二一〇、女婿林通兼·住す」と新撰志には「ある說に林左衞門尉通兼·〓水の城主なりしともいへり。又林氏は本巢郡の十七條にありしともいふと見ゆ。又厚見郡江崎城(鏡島村、江崎)は林幡内(林惣兵衞の子、稻葉正成の兄)居城すと傳ふ。又山縣郡岩崎城(岩野田村岩崎)は、弘治二年に齋藤道三築き、林駿河守道慶をして守らしむ。後道慶·鷺山にて道三と戰死す。新撰志に「林駿河守正道入道道慶は、道三の旗大將にして、義龍の旗大將林主水とは伯父場なり」と 0その後、江戶幕臣に此の氏あり、家紋属切角に三文字、左三巴、九枚笹「通村の三代但馬勝利(通勝、佐渡)·外家の號南部を稱し、信長に仕ふ。その男丹波正利(新蔵、藤左衞門、林氏に復す。小早川秀秋に仕へ、後家康に仕へて美濃國可兒中島にて二千石を領す。その子丹波勝正(藤左衛門-福左窗門明(左兵衛)一蘭左衞門正榮」と。寛永系譜は利仁流に收to-又「林半左衞門光正の支族なれど、林佐渡守が鳥帽子子となり、誠智姓に改む」と云ふあり、「孫左衛門光勝-次右衞門正長(甚五右衞門)」にて、角切角に三文字、丸に扇打違、左三巴、九枚笹。89〓和源氏土岐氏族美濃の豪族にして、方縣郡土居城は土岐の一族、林右京亮(土居駿河守)の居所也と。新撰志に「土居駿河守賴權は土岐隱岐守光定の曾孫原彌二郞師實の長男にて、上土居村に住みし人なり」とあり。又根尾右京亮が二男に林出羽あり、ネヲ條を見よ。90森氏族金山記に「美農國土岐郡高山の城主平井頼母は森家の猛威を懼れ降參して、城を明け渡し、自身は下屋敷に住みければ、武蔵守·使をつかはし、城を受取りて、伯父の林長兵衛尉を置く」と。また「大森の主將奥村又八·森家に敵對しければ、武藏守憤り、士大將林長兵衞、可兒庄六、同歷助等、三百餘騎を遣し、大森を攻撃しければ、又八禦ぎ得ず、打負け、諸兵にまぎれて落失けり一と見ゆ。91美濃の林氏以上三項を見よ。その他、林兵庫助、同主稅等あり。新撰志、安八郡條に「林半助·青木村より出で、始め宮川家の家長たりしが、後石田治部少輔三成が使番となり、數々の戰功あり」と。又平野庄山王權現社人に林氏·見え、又儒者に林伯英(世與)あり、大進と號す。92近江の林氏蒲生家々臣に林內藏人(また蔵人)あり、後に蒲生を稱す。又林五良作等見ゆ。當國林氏に家紋コクモチ劔片バミのものあり。93藤原南家工藤氏族伊勢國奄藝郡林邑より起る。三國地志に「林堡、林民部少輔居守」とあるもの之にて、明應中、長野工藤氏の一族祐行·之に居りて林を家號とす。その子に民部行藤、孫次兵衞英春等あり。名勝志に「林城址·林村に二處あり、一は字北浦に在り、東、南,北の三方險崖に臨み、四は平坦にして耕地たり、松樹疎生す。正應中(一に明應に作る)長野氏の族林祐行·城を築きて居증0數世の孫重越に至り、關氏の一黨と和せず、爭ひ止む時なし。天文五年十月、關盛信·自ら兵を將ゐ、鹿伏兎定長を先綠とし、來リ攻め之を拔く。重趣、長野ネヲ97諺自家臣秀康結婚姻に一九千八百四十石、内六千八百四十石與力)御普請與頭林長門、千五百石林圖書、千石林久助、六百石林内記、二百石林六兵衞」等見ゆ。98圖基林家その祖門入窘は、もと森氏、幕名にて林となると云ふ。二世門入は安井算知の門、三世門入(玄悅)、四世門入(片岡氏、因伯、因竹、朴入、准名人)、五世門入(井家氏、因長)、六世門入(門利)、七世門入(轉入)、八世門入(祐元)、九世門入(門悅)、十世門入(鐵元)、+一世元美(舟橋氏、准名人)、十二世門入(相榮)、十三世秀榮(土屋氏、本因坊秀和の二男)なり。後に本因坊十七世を襲せて其の內容を說明して見よう表願の林本源とは林熊徵氏一族の家號なのである。石宮谷に跨る。周圍はににして、慨れ林藪たり。平坦の地今宅地となれり」と、次項を見よ。94桓武平氏關氏族これも伊勢國奄藝郡林邑より起りしにて、本村舊記に「天文七年、關氏の族鹿伏兎定長の二子定保·城を築き、之に居り、林氏を稱す。保春の時、天正十一年羽柴秀吉·來り攻めしが、城堅くして拔けず、されど後出でゝ降る。秀吉封を但馬の一邑に移す」름又加太系圖に「近江守定長(信長に仕ふ)-定保(民部少輔、林家の祖)」とあり。95伊勢齋藤族第六十一項の支族にして、林豐前守從五位下光家六代孫林次郞光友より十代「林長左衞門光久(始め庄次)-文右衞門光政(國太郞)-長五郞友政」也to丸の内三柏、替紋藤の丸。96度會の林氏荒木田姓あり、内宮の社家にして、内宮權禰宜家筋書に一杯、田長の裔、氏親を祖とす」to又度會郡金浦邑四の浦に北畠家臣林雜記の居宅址あリ.「天正四年、具〓に從ひ、三瀨城に自殺す」とo又宇治土公裔と云ふものあり、内宮地下憎扁宜也。飮水国棟=維護-爾昌=熊微!國仁第一月爾昌熊徵(大水)維讓-雷康熊祥(大有) *林平侯國華熊光(明日)爾嘉評職)第二房祖壽(雜記)維源1柏壽(軸配)트國英-松麻(番記)彭壽-忠(影)第三房國芳維德鶴壽 (木木)嵩壽(意圖)臺灣に於ける林家の祖林平侯は、南支那漳洲から來た人で、專ら撫蕃に從事し、又開墾事業に貢獻する處が多かつた。その子五人は上述系圖に示す如く、飮、水、本、思源なる五記號の家に別れたが、飮記卽ち國棟は天折したから、本源二記號の兄弟飮記の財產を併せて本源と號した、是れが卽ち林本源なる家號の起源である。次いで本記なる國華には、維讓と維源の*國華林平侯第二房維源트國英第三房國芳維德99源姓江戶幕臣にして、寬政系譜に「公局(恕軒、支伯)-一之(玄正、玄伯)-義方(恕軒)-茂安」と載せ、又幕府藝者の書附に「二百侵譬師林玄伯、今以つて同高、小普譜林玄昌」と見ゆ。100臺灣の林家舊稿に「林本源家。臺灣に林家と云ふ名族のある事を知らぬ人は診なからうが、如何なる系統の家で、如何に組織されて居るかを知る人は多くなからうと思ふから、此處に略系を載せ、維讓と維源の 子があり、源記なる圖芳には、維線と稱する子があつた。よつて國華は其の長子維讓をして飮記なる國棟の遺跡を繼がしめ、それを第一房と云ひ、維の第二房、維德の家を第三房と云ふ事となつた、これ林本源三房の起源である。林維源はなか〓〓の人物で、〓朝から墾務大臣に封ぜられ、臺灣開拓の功績が頗る著しいのである。林本源中興の業を遂げた人と云つてよからう。明治二十八年本島が帝國領となつた頃は、まだ存命して居て、同族一家をなして居たが、明治三十八年維源の逝去するや、所謂林家の御家騒動が起つて、四十四年に至り、各房初めて分離獨立する事となり、現今では十房に分れて居るのである。卽ち一房には熊置、熊祥、熊光の兄弟があり、二房には爾嘉、祖壽、柏壽、松壽の四人、三房には彭壽、鶴嘉、嵩壽の三人がある。當時林家の總財產は之を六分し、一月十の二を、二房その三を、三房その一を得たのであつた。右十家の內現今鶴壽、松毒は上海に在り、熊群は福州に、柏壽はロンドンに、爾嘉は瑞西に滯在して居るのに本番がある、なほ其の爾嘉も亦その子をして帝國々籍を持たしめて居るのである。右の内林熊徵氏は林本源の本家であつて、林本源中興の祖林維源の遺志を軽ぎ、公益に貢獻する處顏る多く、從つて社會に重きを爲して居る。氏は現在華南銀行總理、林本源製糖會社々長たる外、臺灣建物會社、臺灣煉瓦會社、臺灣日々新報社臺灣製鹽會社等の重役を兼ね、以つて臺灣各種事業にそれ〓〓關係を有するのであるが、猶ほ上海漢冶葬製鐵會社の董事、安川製鐵所の取締役である。又名譽職としては總督府評議會員である。大正十二年攝政宮殿下臺灣行啓の際には、永年社會事業、竝に臺灣統荷上に貢獻したる功勞を思召され、特に動四等に叙せられた。なほ同氏の夫人は、盛宣懐氏の第五女である」と0 101雜載仁明朝に林眞倉あり、舞師として名あり。下つて東鑑卷二十一に林內藤大、二十一、二十六に林太郞を載せたり。更に下りて、細川兩家記に「松山方內林源六」、また参河後風土記に「吉田信勝配下の將林宗右衞門」、槍術の達人に林又兵衛(水線)等あり。又德川時代、尾州家重臣、狭山北條藩重臣,神戶本多藩重臣、田村一ノ關藩中老、松本松平藩用人、高知山内藩用人、徳島蜂須賀藩用人、岡崎本多藩重臣、丸亀京極藩用人、多度津京極藩用人、高取上村藩重臣、足守木下藩側用人、懸川太田藩番頭、濱松井上藩中老、池田支藩附人、勝山小笠原藩重臣等に見ゆ。又京極殿給帳に「五百石林半助、百八十石(郡奉行代官)林文左衞門」等見ゆ。又幕府藝者の書付に「二百俵、醫師、林牛齋今以つて同高」と寛政系譜に4齋-玄益-玄喜-玄宗(春臺、奥庵)」とあり又幕臣林伊兵衞の孫、左十郞の男伊太郞長彌は鶴梁と號す、良吏として名聲あり。その男國太郞の長子圭太·後を繼ぐ。又關長門守侍帳に「五十石林六左衞門」を載せたり。又本多中務家に林道久あり。又水戶家動王家に林忠左衞門以德、林五郞三郞正德あり。又同藩林了藏正龍、又同支藩守山の士に林彌三郞庸(政義)等も志士として名あり。又天誅組に林豹吉郞あり、贈從五位也。又〓尾山城守給帳に「五百石林九郞左衞「五百石林九郞左衞門三百石林吉新二百五十石休喜平治.百三十石林多右衞門、百石林七左衞巴等見え、又田中家臣知行割帳に二百石林九郞兵衞、三百石林甚兵衞、二百石林甚右衞門」等を擧げたり。又伏見役人帳に林彥四郞、津山藩分限帳に「四十五穀、林苔一郞、五石三人扶持林嘉藤太」を載せたり。又尾州藩儒者に林彥八維祺あり、南涯と號す。もと日比野氏、林季倪の關となりて林氏となりし也。又幕末、林左門あり。又鯖江藩に林三藏見ゆ。又勝山藩儒に林米蔵棟あり、毛川と號す。又京都の儒者九成林九兵衞義端(文會堂)は仁齋門、又松代藩儒に林孔彰·軍山と號す。又林景範あり、文進と號す。皆名あり。又黑田藩に林四郞兵衛見ゆ。又駿河府中淺間社家に林氏(慈善坊)、銀座由緒書に「平銀見役·林九一郞」を載せ、又薩摩伊集院村に林氏あり、朝鮮人の意也。ノシロコ條を見よ。又茶道には遺州流に林道溪、林義牧、石州流に林隨應あり。又浪華淨瑠理節に林和泉大夫、温華の畫家に文波林直之、又圓苑林秋藏新(日新)、狩野派畫家に林養清等皆名あり。又伏見宮侍國學者に林茂樹(蓮阿、聽兩庵)あり。又近衞家侍、久我家侍に見え、又江戶國學者に林主稅國雄(眞楫)、又江戶の歌人に林利助諸島あり、本姓鹽瀨氏、加茂眞淵の門也。その男長枝も亦名高し。また事臣(靜岡藩士)林董は明治時代外交官として功多く伯爵を授けらる、その子林雅之助也。その他、上野、下野、羽前.羽後、志摩、出雲、備前、播磨、因幡伯言、土佐、讃岐、陸奥等にも存す。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)

系図・系譜

関連論文

外部リンク