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湯川(5)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

5居城略歷日高郡丸山村龜山城跡は村の中央にあり、湯川氏の本城にして、續風土記に「湯川氏は武田家よリ出で、祖を武田三郞といふ。源義家の弟義光の後なり。後字多院の時、罪に依つて本國季婁郡湯河に蟄居す後此の地の賊を討ち、功に依り罪シ教され、牟婁郡を賜ふ。芳養莊を治めて子孫に傳ふ。三郞の孫獨太郞·北朝に屬し、功に依リ、在田、日高、半婁三郡を賜ふ。彌太郞七代の孫を政春といふ、宮内少輔と稱す。明應三年、足利義澄·南方副將軍に任ず。政春の子直光·民部少輔と稱ふ、小松原城に移る。畠山右京大夫高政·紀泉河三國守護と爲り.三好修理大夫と戰ふ。直光、弟湯川帶刀、第湯川右衞門大夫、湯川甚大夫等·し〓ヽユカいユカハ열 コスUSUS「天正十三年、湯川直春·京軍に打破られ芳養泊城に逃れ、又龍神近露山に保み、鹽見峠に奮戰せしかば、京軍死傷するもの數を知らず。遂に田邊の城に引退き、兵を分ちて一瀨城を圍む。兩陣相對する事、一月餘り、京軍·山谷喩喩にして、進退自由ならざるに苦み、遂に和睦して旋へる。翌年、豐太闇の命に依りて本領を安堵し、其の族三百人を率ゐ、和州郡山の城に參觀す。軸秀長·直春を旅會に毒殺す。其の臣淺右京·逃れ還りて泊の城を攻めて戰死す」to 6族裔山田庄名屋浦源行寺は、文明中湯川の一族左衞門次郞の建立と云ひ、「日高郡御坊村四本願寺御坊は天文元年、湯川直光の建立」と見ゆ。又小松原村法林寺は當莊龜山城主湯川民部少輔直光の建立とあり。又續風土記、日高志賀莊條に「六十人地士湯川元右衞門。祖は湯川直春の第小中村の領主湯川源吉〓勝なり。〓勝は、小松原落城後、小中村に歸リ農民となる。慶長十八年病死す、其の子鮎之進·元和五年六十人地士となる」と載せ、又有田郡一廣莊地士湯川了帖、湯川直光の弟安藝守の後なり。天正中、小松原落城の後島村に蟄居し當地に來る。其の斎藤之右奮門·寶曆年中、地士、井に大莊屋となる。代々地士を相續す」to又當國大畑氏は日高龜山城主湯川民部少輔直光の末、次郞右衞門直光の裔と云ひ、又卒襲郡道湯川村の舊家に地士湯川與兵衞あり。「天正中、湯川直春毒殺後、嫡子丹波守光春·大和大訥言に仕へ三千石を領す。秀長沒落の後、淺野家に仕へて藝州に移る。與兵衞は光春の支族なるべし」と又小野村舊家澤氏は湯川莊司光政の弟次郞勝光の裔にて能城に據ると、澤條を見よ又當國儒者に湯川西次元綱(R)丁甫)あり、仁齋門、東軒とすす。又幕末、田邊藩儒に湯川浴(君風)あり、黑仙堂麑洞と號す。その他、栗山、四、大畑等の條參願。又部賀郡滿家村の地士に湯川善十郞あり。又東牟婁郡四村荘下湯川邑湯川氏系圖には「武田信重の男豆州湯川城主湯川直光·足利三好家の戰に戰死し、その男直孝·漂泊して熊野下湯川邑に居住と見ゆるとぞ。連歌湯川氏花の本宗匠宗転法師は、在田郡下津野村吉備野の伎業師の子也。應永二十八年生る、連獸に優れ、その名天聽に達す。「勅によリ參內の時、俗姓を尋ねさせ給ひしかど、卑賤の身なることを憚りて、湯川政春が族なるよしを勅答す。湯川は本國の著姓にて、政春は宗祇が門下なれば、かりそめに斯くは申せしなり。後政春に此の事を語りければ、政春が面目なりとて深く悅びしより、遂に湯川氏を冒せり」と傳ふ。後に東國に行脚して箱根山に卒し、駿州に葬りしとぞ8〓和源氏武田氏族油川氏流武田信昌の子信惠を祖とす。其の子「信友-信吉-信次-信貞-信忠-信價」也。家紋劑萎、花菱。藝者書附に「二百俵醫師湯川壽三、今以つて同高」と載せ、寬政系譜に量閑養子壽三延房-同春房」等見ゆ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)

尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[5]:30頁
  • 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[8]:117頁

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