渴
概要
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姓氏家系大辞典
其所曰水島渡、至今水在之也、其後越智郡御島、有御垂跡、自文武天皇、千七号賜額上、一位大山積大明神、始祖依爲御諱、改越智也、」姓小と見え、新居殿の譜には「是者於唐崎不借船人也、故玉興依其時恨、不近侍、玉澄爲心得一渡當國、居住新居郡、新居殿申也、雖〓〓玉澄舎兄如此也、其比橋長者〓正云人、爲當國々司、近之、姓改橘、二三代遇、兄弟別而稱高市、其末有精儀、友儀云名人居住、三谷又吾河此末流也、又後醍醐天皇臨幸山門時、引卒八十三騎號此時賜三十八款、井門一族是也、又於赤間關、和田義守矢射返、又於攝州生田之森攻と云ふ系圖もあり。其の他續群書類發にも、別本河野系圖を二種類載すれど、豫章記と殆んど違はず。又系圖綜覽に越智姓系圖を收むれど、豫章記より出でしものと考へらる。其の他河野氏より出でし稻葉、一柳などの系圖に見ゆる越智の系圖も極めて多けれど、以上三種を簡略にせしものに過ぎず。次に益躬以後は豫章記に「益躬-武男-玉男-諸飽-萬躬-守與玉興和銅年中に、既體味煙、その場合を開くする三島大明神、高伊達大ととす代不詳相共役行」者、自豆州、有御上洛而後、靈年中、攝津國淀河の岸に、御臨幸之時、依有因緣、明神玉興之乘船に乘移御す。仍此所を號三三江江是也、社壇御す、御本地相同豫州、御下國の路次、於備中國海上、明神御弓の波須を以て、潮の中より〓水を湧出せしめ給ふ、自爾以來、此海を號水島の戶、至于末代、彼水常に涌現すと云々。正一位大山積大明神と額に銘之、本地大通智勝佛正一位諸山大明神と額に銘之十六王子内、第一皇(伊豆三島御事、於當浦戶御前と申也)、本地藥師佛御垂跡の始、明神御約諸云、汝國に住せば、我も是住せむ、我世に有は、汝も是に住せよと云々、玉興姓小千の字を改て、換御本地文字て、號越智、越智大義也、玉興龍駒を飼ふ、其毛黑駭也、卽〓明神、至于今今、神脈の神馬駿也、神殿御戶に壁國畫有之-王純-宇宇大大、樹下大明神是也宣旨、天平年中に太宰少貳廣嗣謀叛之時、蒙ニ發向鎭四、晴吉郡司南投球桑田村直同新錠關下押飯使大井盖益男-眞勝-深躬-興村-興利-與方-好方朱畜天皇御字天慶年中、純友謀叛時、蒙宣旨、遺士卒奴田新藤次忠勝、取純友首、奉載王城、其時賜赤地錦直垂、野間温早大領 喜多郡便道泉郡佐久米隆介和氣大夫好學-安圖-安躬-元興-元家-家時と。越智系圖には、守興の譜に「承天智天皇命、治新羅、於越國、經三年、其間、警避女、有二子、又茶碗定器自此始也、日本土器盡故也」と見え、其の子に玉興と新居殿と玉澄との三子を載「益躬-武男- オチオチ依此功賜赤地錦垂體等也、又有村上者、蒙勅斷讀居新居大島、伺王命九州同船、依此時功被許勃勘也」と見ゆ。その他越智、河野の諸系圖も、また矢野系圖、一宮社記(共にヤノ條參照)等も皆同じ。以上の內1此此氏を孝靈天皇の皇裔とするは全く採り難し。蓋し此の誤は氏神関係より來りしものと考へらる。卽ち以上系圖が伊豫皇子とする彥狹島命は吉備氏の祖先にして、又嫡子の後とする庵原氏、第二王子の後とする三宅、兒島の諸氏は何れも吉備氏の族なり。而して此等の諸氏は何れも、越智氏と同樣、三島の神大山津見神を氏神とす。越智氏は前述の如く物部氏の族にして、吉備氏の族にあらざれど、越智氏以外、大山津見神を氏神とする諸氏族が多く吉備氏の族にして、孝靈天皇の後裔なるより、越智氏も同樣に孝靈天皇の子孫と誤りしに外ならず。此の氏神氏子の賜係よリ祖神を誤りしもの他に多し。又越後國三島郡の三島神社が大山津見神と孝靈天皇とを合祀するが如き、此の關係より來りしや明白なりとす。猶ほ此の問題につきては、イオチ九九ロ.射鹿、揚弓勞名、亦〓儀也、又字麻郡河江有異俗、召出勤東大寺供養之導師、是又此家末裔也、勅號華嚴三郞也、又米田一族亦此家末也、此家有二八箇村、周敷、今井、越智、難波江、德永、松木、高部、折居、」と見え、玉澄の譜には「號字麻大領、樹下大神、渡日本著唐崎、泣々然矣、此時玉興、擊勃勘、渡伊豫國、更無借船人。有我等兄弟船二艘、奉我船下國也、於船中間我先祖生國、以父守與事答之、玉興間予物有乎、卽守興重代御劍、御手蹟等取出掛御目一有拜見、無疑我弟也、風綠純熱而相逢事先父引合也、恐悅不斜、吾老而天上栖居離成、令繼家督讓與國、心安可居、彼姓稱河野、名乘號玉澄、令居ニ住風早郡高繩龍、稱河野事者、於備中沖、船中探得水者、予里高繩山流出水也、然出可予里四字作二字名字、付河野、奇特多事ども也、」と見ゆ。其れより家時まで大體同一なれど、唯好方の譜に「越智押領使、朱雀院天慶二純友押領九州、背宣旨、好方蒙退治之命、遣士卒奴田新藤次忠勝、取純友頭奉王城、ホハラ、コジマ、ミヤケ、ウキダ、及びイヨ、ウキアナ條を參照せよ。17物部流越智系圖兎に角越智氏は物部氏の族にして、孝靈天皇の裔にても、大山津見神の後にもあらざる事は明瞭なれは、近世次の如き系圖あれど、又採り難し。「饒連日命-字摩志麻遲命-彥湯支命-出石大臣命-大水口宿禰命-大綜杵命-伊香色雄命-大新河命-大小市連公(越智氏祖)-天狹頁-天狹介-粟鹿-三並-熊武-伊但馬-喜多守-高繩-高箕-勝海-久米丸-百里-百男-益躬0豫越智郡大領) -武男-玉男-諸飽-萬躬ー守興ー玉興」とo何となれば、河野氏は次に述ぶる如く越智姓にあらずして、前述せし越智、河野の諸系圖は其の實越智氏の系圖にあらざればなり。卽ち天狹貫以下は其の實越智氏にあらず。18河野氏は越智姓に非ざる說予單は久しく、以上擧げたる越智河野の系圖は最初に孝靈天皇の後裔とする點に於いて誤れど、他は越智氏の古系圖にして、河野氏は越智姓なりと信ずる事、久しかりしも、仔細に之を調査し、猶ほ浮穴系統の及び諸系圖を合考するに及び、河野氏は越智姓にあらず、伊豫國造の後裔にして此等の系圖の根本は、伊豫凡直の系圖なるを明白にするを得たり。この事は旣にイヨ條、ウキアナ條等に於いても述べたれど、猶ほカウノ條に於いて詳說せん。されば一切は其等の條に送り、此處には越智氏に関係する事のみを述ぶべし。以上の越智の系圖が眞實越智氏の系にあらざる事は、第一に、前述の如く國史、其の他の古書に越智氏の人が多く見ゆるに關はらず、傳說として有名なる益躬以外は、一も此の系圖に見ゆるなし。勿論此の系圖は直系の人のみを擧げしに過ぎざれば、支庶の人の見えざるは怪しむに足らざれど、前に擧げし越智氏人中、廣圖、飛鳥麻呂の如きは、越智郡の大領なれば、直系の人と考へらる。又此の越智氏は宿禰と稱すれば、初めて宿禰姓を賜ひし廣成、若しくは年足等の名のあるべき筈なるに一もあるなし、これ此の系圖の怪しむべき第一の疑點とす。次に國史上に見ゆる當國の越智氏の人は、所貫を明記すごもの總べて越智郡とありて、他郡なるもの一もあるなし。然るに此の系圖に據れば、多く他郡の人にして、河野氏は浮穴御館爲世より出で、以後の發達明白なり。更に一層古く湖れは、此の氏は伊豫郡大領玉興の弟より出10然らば此の氏は伊豫園造凡直の後裔たるなり。豫章記には玉純の時越智と稱すと云へり。卽ち「玉興·龍駒を飼玉ふ。其の黑駁、卽ち明神に献ず。故に神厩の御馬は駁也。御寶殿御戶に神馬の圖あリ。玉興老後、雲上立栖懶とて御暇申す。歸國有て彼島に住む。越人舎弟ながbc養子にして、家を讓與し奉る。御名を玉純(3)と申ける。字摩大領樹下大神と申す。高繩山麓に河野の館あり。姓をば越智と稱す。玉興、常島に御座、玉澄河野に御坐す」と。然らば河野氏自身も古くより越智と云ひしものとはせざるなり。殊に此等の諸系圖は何れも伊豫郡神崎庄靈宮大神を祖廟とすと云ふ。靈宮は延喜式神名帳所載伊豫豆比子命神社にて、伊豫國造の祖神を祀れるなり。然らば此等の氏は益々伊豫國造の裔なる事明白ならずや。而して系圖が謂ふ所の伊藤皇子とは、要するに伊藤豆比子命なる事、浮穴、伊豫條に云へリ。伊藤國造は伊豫の大國造にして、凡直と云ふ。其の勢力伊豫一國に亘りしかば、一族各郡頷に補せられし事、國史古文書に明徵あり、然らば越智河野系圖に一族各郡に榮えしと云ふも故ありと云はざるべからず。此の事は猶ほイヨ、イヨノオホシ、ウキアナ、及び河野條を見よ。18然らば何が故に河野氏が越智氏と稱するに至りしかを考ふるに、越智郡は中古以來國府の所在地にして、且つ大三島大山津見神の鎭座地なれば、河野氏の勢力を得るや、次第に力を此の地に張り、伊豫の國の國務に與り、又一方三島社を崇敬して其の氏子となり、其の勢力をも兼併するに至り、遂に越智姓を冒すに至りしものと想像せらる。其の後、村上氏、島氏等も神主となりて、越智姓を冒せる思へ。而して上に引ける越智河野系圖に越智益躬の見ゆるは、此の人·法華動力し、今昔物語等に見えて、人口に噌炙すれば、其の系圖に補ひしにて、推古朝の人とする如き、益々蛇足なるを知らん。19三島社大祝越智氏伊豫越智氏の氏神伊豫越智氏の氏神 は延喜式に伊豫國越智郡大山積神社とあるもの之なり。大三島宮浦村に鎭座せらる。其の大和累代越智氏なり、卽ち小市國造の後裔に外ならず。代々安の字を通字とし、河野氏が通の字を通字とするに異れり。此の氏の事はミシマ、タカハシ等の條にて詳說せむ。20字和の越智氏宇和郡三瀧城主北之川氏の事なり。同所藏王權現文明十四年の棟札に「字和庄須智綿北之川村居住國智朝臣安直、」また永正八年の權札に「越智朝臣長安、越智朝臣通安」と見ゆ。然るに此の北之川氏は諸書に紀氏ともあり。よりて前述せし延層十年に越智直より本姓紀氏に復歸したる廣川等の裔ならんかと云へど、覺東なし。21伊豫郡谷上山寶珠寺、安養山本願寺等は、白風年間越智有興の開基と云ふ。又温泉郡石手寺は神亀五年に越智玉澄が建立したるにて安養寺と云へりと。斯くの如き類多けれど、信じ難し。22新居流越智氏豫章記に「新居の一黨も八ケ村有り。所謂、周敷、越智、今井、松本(木)難波江、德永、高部、新居の八ヶ村也」と載せ、また矢野系國にも見えたり。ニヰ條を見よ。23日向の越智氏其の記錄に「越智家の大祖先は、九州日向國兒湯郡田中城主河野丹後守越智通延也。弓引大明神と中上奉る、村上天皇應和三年霜月二十二日寂」と記し有り。孫左衛門が十三代續きたる家にして、累世伊豫圖新居郡に住す。日向にての城跡は、日向兒湯郡下穗北村三宅字小路なりと。口傳に天ヶ崎にて戰死すと云へ共、何れの地なるか明かならず。24福岡藩に越智氏あり、明治十年三月、越智彥四郞同志四百餘人と共に隆盛に應じて兵を擧げしも敗北す。又豐前にも越智氏あり。25大和の越智氏高市郡越智にありし豪族にして、其の出自に開しては種々の說あり。郷士記には「伊豫河野」の族とし、又「高倉下命十七世弟鹿、始めて尾智村に姓を賜ふ」と云ひ、又根成林越智系圖には、後述の如く大和源氏字野氏の一族と云ふ。猶ほ橘氏なりとの說もあり。されど、越智氏は姓氏錄左京に收むるを思15.早く一族の中央に上リし者のありしを想像すべく、又延曆二年四月紀に「贄田物部首年足が越智池を築ける」事を擧ぐるが故に、越智の地名は古くより此の地にありしものと思はれ、且つ越智氏も物部氏族なれば、此の地方に同族の存せしを證明するを得。よりて此の越智氏は、上古時代伊豫より別れしものにて、河野氏と同視すべからず。その河野と云ふは後世越智と云へば河野を聯想せらるゝが爲のみ。又橋と云ふは、伊藤橋よりの誤謬にて、宇野氏と云ふは大和源氏に附言せしならん。猶ほ大倭武士春日大宿所願主人勤番次第に「散在等、越智、姓物部、高市郡畝火山西、二萬四千石餘」と見ゆるにより、益々伊豫越智と同族なるを知るいる而して高倉下十七世弟鹿、尾知村に住むと云ひ、又石上考所載物部系圖に「弟鹿、日村尾治、今越智」など云ふは附會に過ぎず。日村尾治は日村の尾張氏の事なり、尾治をヲヂと誤解する、笑ふべしo越智氏は大和五黨(後六黨)の一なる散在黨の旗頭にして、至德元年四月の大和武士交名に「越智殿」と載せ、太平記卷二十八に「左兵衞督入道慧源(直義)は師直が西國へ下らんとしける比ほひ、潜に殺し奉るべき企有と聞えしかば、其の死を遺れん爲、忍びて先づ大和國へ落て、越智伊賀守を憑まれたりければ、近邊の〓民共、同心に合力して路々を切塞ぎ、四方に關を居えて、誠に貳なげにぞ見えたりける」と載せたり。以つて其の勢力を察するに足らん。而して南朝と深き關係を有し、南北合一後も、永享年間、南方の宮·圓胤法親王が、將軍義〓、弟義昭の奉ずる處となりて、越智維通に倚り給ひし事あり。義昭は越智氏と謀り、親王を奉じて天の河に兵を擧げ、越智氏は幕軍に攻められ、多武峰にて敗北す。東大寺藥師院日記に「永享四年十一月二十八日、大和國え武家入國、越智殿燒拂ふ。云々。未年三月二十四日越智次郞切腹、同越智二十七日切腹、京都御所より武家下られ、在々尋ね求らる云々。嘉吉元年七月十四日,楢原家、越智一屬より貴之云々、二年戊午八月二十八日、越智多武峯に城堺を構ふるの間、京師武家之を責む」とあリ、此の事件を指すなり。又大和志料に「越智伊豫守通賴なるものあり、南朝に仕へ、元中九年南北講和の後も、和田、楠木、橋本、三輪の諸氏と共に、仍ほ吉野に留り、天下の形勢を觀せしが、正長中、北朝約に負き、其の統を立つるに及び、出でゝ高取城に據り、義旗を擧げ、久しく北軍に抗せしも、志を得る能はず、終に嘉吉の難に殉じたり。文安中、越智伊與三郞は南朝の遺臣と共に、皇胤を十津川に奉じ、恢復を謀る。事十津川記に詳かなり」とこれより前、貞和二年九月、越智伊豫入道あり、越智邑に興雲寺を開基し、僧義天を開山とす。寺に越智伊賀守の墓碑あり、應安三年七月五日と勒す。太平記に見ゆる伊賀守の事ならん。又高取村〓水谷の靈鷲寺は越智氏代々の著提寺にして、其舊記に「大和國高市郡冷水谷邑桃源山靈鷲寺常喜院。當寺常喜院は越智家代々御菩提所たるなり。越智源左衞門尤家高公、在世應永年中、後小松院朝、義滿將軍の治世也。當寺歡喜天秘法次第の奧書に云ふ。云々。爰に越智源左衞門尤家高公、南都無實の僧侶等の無實の訴訟により、京師より越智殿退治として大軍兵を向くべき其の聞え有り、然る間祈禱として、應永五戊寅、十月四日より、同く六日迄、之を修す云々。永正六年八月二十二日書寫畢んぬ。家榮公、在世明應年中前後。彈正忠家〓公、在世永正年中、」と。次に家〓の永正八年未十一月吉日常喜院定掟五ヶ條、同十三年十月の出陣立願書、位牌(永正十四年四月七日)、燈明料之事(天文二十一年三月二十八日、楢原伊豫守家金判書)家〓公御具足の事等を載せ、次に「越智伊豫守家盛公、在世永祿年中云々」とし、永綠十年三月二十一日の連判狀を載せ、越智民部少輔使·下善衞正安、越智伊豫守使、堤又兵衞吉〓等の名あり。又次に次代越智家廣の判書を載せたり。內·家榮以後の事は徵證あれど、家高の事は詳かならず。根成柿天滿社棟札に據れば、家高は永祿頃の人也。家榮の事は尋尊僧正文正元年記に「當國に於いて左衞門佐引汲の輩は越智彈正家榮の一門、曾我、高田、小泉延定房、高山萬歲、同等也」to又春日社藏長享元年十二月五日文書に「越智彈正忠家榮花押」と。又應仁記に「大和衆越智彈正」など見ゆ。次に家〓も彈正忠にして、福寺英俊法印日記等に據るに、國判衆の一たり。越智氏は越智城並に、同郡土佐の高取城同郡土佐の高取城 オチオチオチえんに據れり、郷士記に「高取山城·越智上野、越智山城·越智玄蕃」と。又大和軍記に「高取と申所に越智玄蕃と申す仁居リ申候。是も能き身上の人にて順慶の姪婿にて候」と又和州諸將軍傳、天文元年の春南都合戰の條下に「越智支蕃頭利之は、高取の城主にして、父を大學助利元と云ふ。同從弟に小治郞利祐といへるあり云々」と。又「高取女蕃頭越智利之は、和州高市郡高取城主、知行一萬五千石、順慶の妊断なり。麾下、土佐、八木、飛鳥氏、五千石合せて二萬石なリ」と載せ、又〓士記に「越智伊賀守家榮、越智民部少輔、越智春賀、越智上野介、越智高取玄蕃利之、同小治郞、(小十郞)利高(織田信忠に仕ふ)、越智亦十郞、越智次郞利政、越智太郞利國、越智三郞利秋、同家老(奥田喜右衞門)」等を載せたり。見聞諸家紋に、藤守橋行資女)、元曆元年二月、蒲冠者範賴に屬し、平氏の族を西州に攻む。處々にて軍功あり。明年三月に至るまで留陣す。平氏悉く亡ぶ。之に依りて宇野の一族·和州抜上、越知、根成柿、栢原を賜はる。時に親家は越知に住す、彩盛兵乃ち越知と稱する也」とす。而して「神武天皇靈勅にて栢を以つて家紋と爲す」とあり。親家の長子親房は大島冠者と號し、次子家房は越智冠者と稱す。家房廿一代玄蕃頭賴秀·大和大納言秀長卿に屬せしが、天正十七年自害すとぞ。根成梯天滿神社永祿七年の棟札に「越智民部少輔家高御代、御宮八〓段別、以十文宛反錢、御造營也、奉行辻子口繁政云々」と見ゆ。27〓和源氏寛政系譜にありて、一に越智氏河野通久の二男通秦の後也とも云→家紋丸に揭羽蝶、三重ね。28中臣氏族中臣系譜に「太田季國〓宮助) -〓季-俊〓(越智入道)」とあるより出づ。29甲斐の越智氏相州兵亂記加島合戰條に「天文廿三年二月中旬、越智彈正云々」とo 30相摸の越智氏本間六郞左衞門尉重連の郞等に越智直重あり、日蓮頃の人也。相摸愛甲郡依智より起り、依智を越智と訛りしならん。3:松平氏族德川綱重(甲府宰相)の子〓武(熊之助、平四郞、玄蕃、民部、初吉忠、〓宜)、故ありて越智奥右衞門喜〓に養はれ、其の遺跡を繼ぎ、越智氏と云ふ。後松平を稱す。其の子「肥前守武雅實松平義行二男)-右近將監武元(實松平頼明三男)-主計頭武寬-右近將監齊厚(石見濱田六萬石)-武揚-武成-武聰(美作鶴田、六萬千石)慶應二年、武聰毛利氏に儘されて、石見濱田を去り、美作鶴田に封ぜらる。六萬千石。其の子武脩なり。現今子〓。マツダヒラ條を見よ。3 2伊勢神宮社家系圖に「大和國字陀神戶司、越智宿禰、河野孫稻裔」「伊賀國名張神戶司、越智宿禰、荒木田裔」と見ゆ。越知ヲチ越智に同じ、三島社應長二年三月の文書等に三島大祝越知とあり。又大和の越智も此の字を用ひしものあり。小市ヲチ國造本紀、天孫本紀等に見ゆ、越智條に云ヘリ。小智ヲチ越智氏に同じかるべし。穩地ヲチ隱岐國の郡名也。和名抄隱知和州之越智26〓和源姓字野氏流前項と同族なれど、根成柿越智系圖には源滿仲の流とし、「十一代親家(太郞、左馬頭、母は伊本間六郞左衞門尉重連と載せ、延喜式には穩知とあり。越地ヲチ稻田西念寺親鶯門侶交名に見wo