渡邊(4)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
4家紋見聞諸家紋に渡邊渡邊中屋曾雨崎渡邊中屋嵯峨源氏日月也渡邊佐々木本屋シ5抵津前述の如く、綱は養母が攝津渡邊に住みし關係より、當國に住み、子孫此の地を根據として渡邊黨と云ふ。此の綱の養父敦は源滿仲の婿なり、かゝる綠故より滿仲の子頼光に仕へて、四天王の一人となり、又その子孫なる省、授、連、與、競、唱等は額光の後裔頼政に從へり。殊に競は京都第一の美男、智勇無雙と云はれし人にて、平宗盛が頼りにほしがりし事は、世の皆知る所也。なほ古今著園集に此の地一藥師堂は源三左衞門翔の先祖の氏寺にして、番の馬允が時修理したり」など見え、又備(赤田七七の男昭は延元二年八月、攝津國離波地頭職たりき。その後裔は、寛政系譜に「奧三左衞門近-刑部少輪忠-同長-下野守某(源三郞、室町幕府に仕へ、攝津安倉城に住し、安倉氏と云ふ。淨林)-主殿助某(源三郞、宗林)-與三左衞門〓(義昭滅後、信長に仕へい安倉領主、宗佐)-仁兵衞定-藤三郞勝(三百石)。家紋三輪貫、波の丸八頭」と。又座摩神社の祠官となり、又大阪天満天神社々家に存し、又渡邊十郞源契は曾根崎の地を開き、後二郞左衞門煮も亦來りて、その後裔は露の天神の宮座として繼續す。その他第二項參照。又渡邊與右衞門重(元龜元死、宗貞)の女は、豐臣秀吉に仕へて二位局と稱す。その第筑後守勝(速見庄兵衞、三千石)、その男筑後守正(與右衞門)-奥右衞門演(二千三百石)、子孫專臣、家紋蔦葉、三星一文字なり。又戰國の頃、渡邊勘大夫等、當國に活動す、こは江州の支族、第十三項流なり。又後世、海華の儒者に渡邊元愷あり、百濟と號し、又書家に渡邉實あリ、頑石と號す。又これより前、文龜元年、渡邊治郞左衞門は警願寺を創立すとギ。又渡邊宮内少輔登の男内蔵分糺は豐臣家に仕へ、元和元年戰死す、船津流槍術の祖也。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)