渡邊(2)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
2系圖綱の後は尊卑分脈に「網-久(源二、源別當、鎭西松浦)正-糺-好有人兄弟也月依宣言改公報弘-武-繁增小き次兄自云々安白川川三代十郞建立下、:口口大夫施官大大最具下I至-〓雙-加〓注從五下: :左高島古い一大き互見一に允甕仕從무長言好-於-譬向甲任, F懸勸奧儲四天抑勝擇及僕面八름即次大飽き下天意Eワタヤ條を見よ。〓注從五下古い一仕言向任儲抑又攝津、磐城,勝擇僕面八름大飽き下E引-行-渡及即次天意從九上1畝:左衞門製大夫阿育、從五下設會收忠收竪忠明任共〓萌始馮-持L〓五九元定了恒-有源三、長衛尉、芸名有岡こ源大兵會(出家制定右馬尤等一に明定法名-任---------------------八郎太郎井嘉二郎紀-傳吾納歷各十年1法名本佛築向直高度五下と老窖實權子BAR記表ず〓三太、赤田保:·天홈第二郡成長長五郎注水番阿三五又渡邊系圖に「渡部綱(五位内會人、天下第一の弓上手也)-久(鎭四松浦の祖、源次、別當) -正(松浦小源次、宣旨に依りて公賴に改む)-安(一本に正の第。後三條院瀧口に仕ふ、源五大夫。弟糺·松浦と)-傳(白川院瀧口に仕ふ、源大夫、從五下、總官。渡邊地官是より始まる。同じく左右衞門に任ず。十六歳の時、紀伊國伊戶半大夫『主人たゞとの家人なり』三十四騎の勢を、傳一人して討つ。其じ太刀を伊戶丸と名づくと云々。其の後、渡邊に住す。箕田家の〓官は傳を始とす云々)-變(堀川院混口に仕ふ、坊門左馬尤)-重(鳥羽院北面瀧口)-滿(鳥羽院北ワタナヘ六五五鹽ハハ博大夫三郞友向門對賦-時膣R向+極勇兵雷射白白一十一및結叶烏一得名:右馬允日廣顏1昇-健-灌:起こん口口七七競-圓圓口總治名人数-源順-悟- :左衛門ロ增走入知揚渡武者所額置五上增重〓att. :口口左衛門謝〓-連-尋唱備品口ざきま省日め守語計房-滋經륫把〓來右風尤別養護大东南門五百島州院±詣ヨロ解武ご答当太持榮筆語:滿九*古典礼翔澄ロ學-飛帆船授增-名------ :左翼左翼衛門:月湛-街----接ー貞四左衛ps痛鶏得ニ: B號中臘-進1番潘-紳一本間、 ワタナヘワタナヘワタナヘ容面諷口に仕ふ、左馬允。天下第一弓の上手なり。鳥羽院の御時、召出されて、人に仰せて百手のつゝかう仕れと、何中依つて仰の如くに仕る。重ねて衣を給はるとき、さほう之れ在りと云々)弟親(瀧口據官、左右衞門尉)、弟調(島羽院武者所、源次)、弟〓(源五郞)」とo次に滿の男「備(崇德院瀧口に仕ふ。宮次瀧口と、本所にて事をいたし死すと云ふ也)-任(近衞院瀧口、左馬允。第加は坊門次郞。其の弟爾は崇德院武者所其の弟諸は瀧口、本所にて源二郞と同死)-省(渡邊播磨次郞、保元合戰の時、賴政一味、其の後三條宮御方として、宇治にて死す)-授(渡邊德官、兵衞、薩摩守、出家。第與は源太左馬九。其の弟廣。其の第類。其の弟界は瀧口左馬允。其の弟競は渡邊混口、賴政郞等と)」と。次に授の男「知(後白河院武者所、左馬尤)-悟(瀧口左衞門、信賴〓道心の時、義朝に與して自害。第走は源太と)-學(高倉院瀧口に仕ふ、刑部丞。平家兵亂の種、九郞判官殿の御沙汰にて總官に任ず。第及は源次、兵庫頭、源平兵亂に平家方にて、福原の軍にうたれぬと云々)-生(後鳥羽院に仕ふ、源八、出家、宇治にて討死。弟守は承久兵亂の時、宮方にてうたるゝ)-種(源次)-定(後堀河院に仕ふ、源大夫。關東被候出家法名昭軒、元仁二八、本知所帶等の事、右大將家下文を賜ふ。文曆二九十四、所帶安堵を下さる。後將軍家の御下知、嘉禎四年四月十二日、御公事を下され、御書を充てらる)-集(後堀川院武者所、瀧口源次)-運(四條院瀧口に仕ふ、總官、四條院金自一勞、延應元年正月左馬尤、次年仁治二年二月左衞門尉、本所警之。第有は源三兵衞尉、法名有阿とあり)-廳(兵衞尉、越後國赤田保地頭職。第了は源次兵衞と云ふ)」と。次に應の男〓(源六、天下第一弓上手也。弟渡は瀧口源次、一に源三とあり)-備(赤田七郞、弟に隆あり)-照(後醍醐天皇の瀧口藏人、延元二年八月に攝津國難波地頭職、興國二年六月十四日に越中國上津見保を賜ふ。貞和四年、河州風森合戰討死)-國(左兵衞尉、觀應二層三月二十二日に左衞門少尉、同九月十七日江州蒲生野にて討死、四十九。第長は久五郎、一に文五郞)-等(瀧口中務少輔、筑後守。正平四年三月十五日に能登國白井地頭職を賜ひ、同五年五月二十七日に越中國楡原保地頭職を賜ふ。第悉は左馬允たり)-直(瀧口兵衞尉、中務少輔。弟副は左馬允、武者所、小武者入道と號す。其の弟房は源五)」とa次に直の男「持(左馬允、弟に成を收む) -擇(四耶左衞門尉)-番(後圓職院に仕左近將監。第源增は山徒、後に高野山に住して助阿闍梨と號す)-與(後小松院に仕へ、總官に任ぜらる、左馬尤)-強(左近將監。攝津國柳津、渡邊、中村を領す。明德三年正月十八日に、楠正勝と相共に河内領守畠山基國と千劔城に戰ひで、楠共に南山逃亡、同年九月、南山より入洛して、大内義弘に從ひて、將軍義滿に謁し、應永八年に難波をたまう光(左衞門尉、嘉吉元年、播州赤松滿祐と合戰の刻、島山持國に從ひ、赤松滿重を討取る、大力と云々)-元(奧左衞門尉、晶山德本に從ひて、應仁元年二月京都の合戰に討死云々)、弟近(赤松に從ひて吉野にて討たる。中村源五と云々)、弟道(鐵山城の合戰討死と云々、野田孫三郞と云ふ)」と。次に元の男コ(筑前守、三好長基に從ひて.桂川の合戰に細川高賴を討取ると云々)、弟行(左衞門尉、天王寺合戰に、高國郞等梶原光肺を討取るなり)、第重(平八、討死)-水(長門守)。又重の弟武(雖波源五、同死)、第繁(同源七、同死)」と。次に興の男「植(奧左衞門。波々三宅にて三好宗三討死の後、方々に身を隱す。其の後、三好長慶·渡邉はがうの者とて尋ねける、隱れて居す。植がいとこを、渡邊津村の者ども、渡邊の總領とて出す。長慶·本知をたまふ、又植·出でて總領を爭ふ、されども植·植領故に本知をたまふ。天正十九年の事也と云々)-吉(與左衞門。三好左京大夫義耀に從ひ、本願光佐と一味にして、信長と元龜元年九月に攝州合戰、度々高名、次の天正元年十一月に、信長と合戰に義權と共に自害すと云々)、弟忠(薩摩守、和泉堺浦にて討死す)、第孟(備前守、同死)、弟調同死)、第昌(同死)」an又吉の男「則(孫三比信長の召に依つて相從ふ。本知をたまふ)-滿(甚七、筒井伊賀守に從ふ) -書(奥左衞門)、弟範專(眞息房律師、興福寺興善院住)。書の男光(奧左衞門)」て歸りけるに、一條堀川の戾橋を渡りける時、東のづめに、齡二十餘と見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿國なりけるが、紅梅の雑に守懸け、佩帶の袖に經持ちて、人も具せず只獨リ南へ向ひてぞ行きける。綱は橋の四のつめを過ぎけるを、はた〓〓と叩きつゝ、やゝ何地へおはする人ぞ、われ等は五條わたりに侍リ、類に夜深けておそろし、送り給ひなんやと馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下リ、御馬に召され候へといひければ、悅ばしくこそといふ間に、は近く歩み寄りて、女房を掻き抱きて、馬に打ち乘せて、堀川東のつめを南の方へ行きけるに、正親町へ、今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房·後へ見向きて申しけるは、誠には五條わたりには、さしたる用も候はず、わが住所は都の外にて候ふなり。それまで送りて給ふなんやと申しければ、承リ候ひぬ、何處までも御座所へ送りまゐらせ候ふべしといふを聞きて、頓がていつくしかりし姿を替へて、怖しげなる鬼になりて、いざわが行く處は、愛宕山ぞといふまゝに、綱が馨を摑みて提げて、乾の方へぞ飛び淺羽本には、綱の孫正の弟に、安、貞、攝津權守精(その男勸)の三人を載せ、貞の裔は「貞-直-源大夫聞-收-竪-傳(瀧口大夫、總官、大往生、元亨釋書に入る)-右馬允滿-(渡邊)省(播磨二郞、保元合戰賴政一味) -薩摩守授-豐前守繁-三郞右衞門兼-三郞左衞門經-瀧口左衞門企-俊忠-刑部永忠房」と。子孫三河に移る、第十六項を見よ。その他多し。又遠藤系圖「水嚴(遠藤十郞房、總官。此の時始めて一文字輩、當國豐島郡箕田里より渡邊所に來往也)-女子(箕田源大夫傳の妻)-滿(右馬允)-省(播磨二郞) -授(兵衞尉)-繁(右衛門尉、豐前守)、弟湛」など見ゆ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)