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淺井(4)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

4淺井侯、恐らく前項淺井直、淺井宿禰の後裔なるべし。されど後世或は藤原氏或は物部と云ふ。淺井系圖には「公網(贈內府公雅子、後氏政と改む。)-重政-忠政-賢政-亮政」と見え、淺井三代記第二淺井備前守先祖の事の條には「淺井備前守亮政の先祖を相たづぬるに、兩說あリ。先一說に、後花園院御宇嘉吉年中に三條大納言公綱〓(後に政氏と改)、勅勘を蒙り、左遷の身と成給ひ、佐々木京極中務少輔持〓にあづけさせ給ひ、則三條家の御知行所として江州淺井郡丁野村に整居したまふ。其時丁野村にて御子一人·氏盛〓ニ盛之大阪中盛辰-盛實-盛次栗BH·氏盛〓ニ盛晴同性庄盛之忠國大阪中第三-家盛盛辰-盛實-盛次盛充-盛安栗盛量栗林渡圧BH土佐片地庄貞盛盛全奥井圧井内圧盛深-增盛-定盛-盛忠-經經盛勝-安盛-盛壽-幾太郞出來させ給ひぬ、若君三才の時勅勘をゆるされ歸浴したまふ。政氏公部に歸りのぼりて程なく薨ず。母の心ひとつにて、都へ若君を供し奉り上るべき便りなくして十一才まで土民の中にてそだておくに若君母にむかひ、たづね給ふは、我父は何人ぞや、何方におはしまし候やと申給1は、母答へて申せしは、汝が父は洛陽三條大納言殿にてわたらせ給ふが、勅勘を蒙り此所へ來、汝三才の時歸洛ましまして、やがて御迎へ下さるべしと、かたく仰せ置かれけれども、程もなく薨じ給ふと申、父の御かたみなるぞとて、守り脇指さし出す。其後御年十四の春、京極持〓鷹狩に出給ふを、此君聞て、馬のさきにひざまづき申さるゝは、某は丁野村の流人の子なり、供奉の御侍衆御名字を仰付られ、いかやうにも召し仕はれ下さるべき旨宣へば、持〓聞たまひ若年の身として近比神妙なりとて、そばちかくよせ給ひ、貴殿の父は公家なり、某近習に召仕事もいかゞなり、名字の事は貴殿住したまふ郡は淺井なりければ、則其名をなのらせ給ふべし。合力には其里を遣はすべしとて、丁野村の内をぞ遺はさるける。去る程に丁野村の内、上米は京着、所の替作は京極の持分なり、それよりして淺井新次郞重政と名乘り、後には新左衞門尉とぞ申ける。其子淺井新三郞忠政是も年たけ新左衞門尉とぞ申ける。其の御子三人有リ。嫡子をば新次郞竪政、次男新七郞、是は三田村か家を次ぎ、三男新八郞是も大野木が養子と成る。嫡子新次郞竪政男子四人あリ。其嫡子をば淺井新次郞(後には姓字を改め赤尾駿河守〓政と申、太尾後卷の時其浦河原にて討死)、次男淺井新三郞亮政(後備後守と改)、三男淺井新助(後に大和守政信と改)。備前守亮政に男子四人あリ。嫡子は淺井新三郞高政(早世)次男新九郞久政(後に下野守久政と云)三男宮内少輪と申、四男は僧に成て智山和尙とぞ申ける。下野守久政の嫡男をば淺井新九郞(後備前守長政と申て)近代の武勇者なリ。此の長政に男子一人萬福となづくるなり。長政の子ども衆の事、(此物語の末に委しく書入るべし。)又一說には敏達天皇守屋大臣より後忠卿、其御子式部大輔藤原忠次卿初て武家に下り、淺井郡五ヶ所を知行して、俊忠、俊政と來、此俊政より亮政迄廿七代と申なり。則ち其卷物も所持仕談へども不審御座候。いづれが本說にて御座あるべきも、いまだ考へ出さず候。されども淺井新左衞門忠政より淺井名字多く榮へ、又一門もこれ有りと申傳候。亮政武略を以て上坂の城を乘取までは、江侍の内にても數ならざる小身人なり。四代が間は螢居し給ふとぞ聞えける」と見ゆ。此等の說に對し、寛政系譜三河淺井氏條に「今の呈譜に『三條大納言公網、後花圓院御宇、嘉吉二年近江國に左遷せられ淺井郡丁野村に蟄居し、文安三年男子を設け、急若丸と名付く、五年ゆるされて歸洛しいくほどなく卒す。これにより母子上洛せずして猶ほ丁野村にとゞまり、龜若丸成長の後、淺井新左衞門重政と稱し、佐々木近江守久朝に近侍し、明應五年、五十一にして死す。其子新左衞門忠政、其子新次郞賢政、其子肥前守利政と稱し、近江國を去て三河國賴田郡にうつり住す云々』按ずるに尊卑分脉に三條大納言公網文明三年八月十日暴に卒すといひ、公病補任に、公綱文安三年正月廿九日參議に補し、兄實種の猶子となる。寶 アサイアサイアサイ義德二年五月十四日藤原朝臣公綱内大臣に補せらる。文明三年閏八月十日暴に卒すとしるす。これらを考ふれば嘉吉二年勅勘をかうむり、淺井郡にして男子を設け文安五年救免ありしなどいふことうたがふべし。」と云へリ。又一說、〓達天皇守屋大臣の後奇俊忠、其子忠次、初めて武家となり淺井郡に五箇所を知行し、亮政に至りて二十七代とも云ふとあるも、又信ずべからず。恐らく前條淺井當宗などの族なるべし。寛政系圓此の流利政の子元近の後八家を載す。家紋丸に根笹、丸に根篠、丸に五三の柵、井桁の内横木瓜。同書大江氏流と稱する淺非氏條に於いて又曰く一寬永系圖大江氏支流におさむといへども、今さゝぐるところの譜によるに、もと藤原氏にして、信濃守政澄、新太郞政重、二代ゆへありて大江氏にあらため(按ずるに寛永系圖大江氏毛利家の下に收めしは、政重が母毛利伊勢守高政が女なるにより外家の氏大江を稱せしも〇さいそののち藤氏に復すと云ふ。その家傳を按ずるに三條大納言氏政(公網)が子新左衞門(初め龜若丸)重政がとき、近江國淺井卽丁野に住せしより淺井をもつて家號とす。其男忠政、其子堅政、其子を亮政といふ。家紋五七の桐、八重裏菊」と。亮政い後の系は次の如し。亮政-久政-長政萬福丸-淀君-京極高次室-秀忠室-高政正面積建築上にへへ淺井氏の居城は小谷山城にして、與地志略に「是淺井亮政、人は、長政三代の城地なり、京極丸は山田下り方南にあり。此間に下野守久政變居地あり。次に二の丸、次に本丸あり。淺井記に大嶽といへる處は今大築が撒と云ふ是也。天正元醒西の年八月、織田信長淺井の小谷山の城を攻蓄す、長政父子自截す」とo淺井氏の重臣は淺井四翼とて、磯野丹波守員正、野村肥後守定元、大野本土佐守國定、三田村左衞門大夫秀俊の四人也。淺井氏の家紋につきては日本紋章學に、「高野山持明院所蔵の淺井長政の肯像には、三盛龜甲〓を居ゑ、各個いづれも、その彩色を異にせる如きは所謂ひやう紋を居ゑたるものとす。」とあり。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)2頁)

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