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深町(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

1肥前の深町氏當國の豪族にして、鎭西要略、應安中「探題今川了俊云々、有馬、安富、深町等成を乞ひ、四肥前平均す」と。下つて天文十三年、有馬晴純·杵島郡に出張す、深町等これに屬す。後藤家事蹟に「有馬修理大夫義貞·深町佐渡椽に横造城を守らしむ」と載せ、又原城紀事に「永祿十二年、有馬氏·砦を加島堀横藏に築き、深町佐渡守をして、百五十人にて守らしむ。元龜元年二月七日、隆信·親ら將として二坂石切谷に軍し、橫蔵岩を攻む。千々岩直員三千人を以つて之を援け、隆信を衝き、克たずして死す」と又肥腸軍記に「天正四年、龍造寺隆信·横澤の城を責らるべしとて、蒲田〓の犬塚彈正鎭家に先陣をさせ責め掛けたり。城主深町美作守は防ぎかね、にげ道より出でて、有馬を差して落行けり」とaまた有馬世譜に「龍造寺の援兵深町理忠」なども見ゆ。フカマツ-フカミ五一四二佛郞機を設けて外寇に備ふ」と云ふ。又肥陽軍記に「深堀浦の城主深堀純堅は、三浦大助義明の末なり。龍造寺より之を責められ、天正五年、隆信·神代に出張り給ふ。有馬方·神代貴茂、長田左京、深江下野、安德惟山、島原純豐等に出向ひ、田平、三江、島原に屯す。合戰の後、和平の計ひあり。天正十二年、島原合戰の後までも、深堀は城をかたうして龍造寺に方人し、薩軍の和平の使を、深堀純堅首切つて佐賀に送りぬ」と。又長崎氏系圖に「天正年中、深堀純實·純忠公に反し、龍造寺隆信に屬して長崎に入冠す。然れども每事利を失ふ、故に天正八年、四〓氏と謀りて櫻馬場棄を攻め、純忠公援兵を遣はす。純景·大に戰ひて利を得たり」と云ひ、又肥陽軍記に深堀純政、龍造寺隆信傳、有馬世譜、鎭西志等にも多く見ゆ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)

系図・系譜

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