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深栖(2)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

2上野の深葉氏前後兩項及び深津條第三項參照。保元物語卷二に「上野國の住人深巢七郞〓國·つと驅け寄せければ、爲朝これを弓手に相請けて、はたと射る」と載せ、また平家物語に深葉氏、源平盛良記、新田人道の一門に「ふかず」を畢げたり。3〓和源氏下總國相馬郡(東葛飾郡)深栖邑より起る。尊卑分脈に「頼光-賴國-下野守賴綱(多田哥人)-兵庫頭仲政-光重(實は光信の子也、猶子と爲りて、下野國方四に住し、波多野御曹司と號す。深栖三郞)-紀伊守仲重(號深栖、高松院議人) -深栖二郞長光-同藏人仲國-同藏人頼重-同藏人賴信-同四郞二郞信資と見ゆ。また賴信の弟に同六郞長經を收め、中興系圖に「深栖。〓和源氏、本國下野方西、下野守仲政の男三郞光重·之を稱す」と載せ、又「深栖·〓和、池田藏人太夫奉貞の養子波多野御曹子·始めて之を稱す」とあり。泰貞は分脈に光重の弟「泰政(瀧口、右馬允。一に奉政、一本に『本泰政、改奉政』、池田紀藏人大夫奉貞·于と爲して姓を改む)、」と見え、又平治物語卷三に「或乙時.奥州の金商人吉次と云ふ者、京上のついでには、必ず鞍馬へ參りけるに逢ひて『この童を陸奥へ具して下され、由々しき人を知りたれば、その悅には金を乞ひて得させんずる』と宣へば『御供仕「ふかず」を畢下總、上野等に此のフカサハフカシ-金一 フカスフェスフカス五三六らんことは易き事にて候へども、大業の御答や候はんずらん』と申せば『この童失せたりとも、誰か尋ね候ふべき。土用の死人を盜人の取りたるにこそ候はんずれ』と宣へば、『その上は子細候はじ』と約束しけるが、『但し定日は同道の人のはからひにて候ふべし』と申す處に、その人又參詣せり。遮那王語らひ寄りて、『御邊は何處の國の何氏にてましますぞ』と細々と問ひ給へば、『下槐國の者にて候ふ。深栖三郞光重が子陵助賴重(諸陵頭、堀三郎と申して、源氏にて候ふ』と答へければ、『さては左右なき人ござんなれ、誰をか結び給ふ』。『源三位賴政とこそ結び候へ』と申せば『今は何をか隱しまゐらせ候べき。前左馬頭義朝の末子にて候ム、母も師匠も法師になれと申され候へども存ずる旨侍りて、今もで罷リ過ぎ候へども、始終都の住居難義に覺え候ふ。御邊具して先づ下總まで下り給へ、それより吉次を具して奥へ通リ侍らん』と委網に語り給へば、『子細なし』と約諾して、生年十六と申す、承安四年三月三日じ鍋、破馬を出でて、東路遙かに思ひ立っ、心の程こそ悲しけれ。その夜、鏡宿に著き、夜更けて後、手づから髮取り上げて、懷より鳥帽子取り出だし、ひたと著て打ち出で給へば、陵助『早御元服候ひけるや、御名は何に』と問ひ奉れば、『島帽子親もなければ、手づから源九郞義經とこそ名のり侍れ』と答へて、打ち連れ給ひて、黃瀨河に著きて北條へ寄らんと宣ひしを、『父にて候ふ深栖は見參に入りて候へども、重頼は未だ御目に懸かり候はず、後日に御文にてや仰せ候はん』と申せば、直に通り給ひけり」と。義經記は少しく違ひて、卷二に、下野國庄たかのに着きて、『宿のあるじを召して、「これは何處の國ぞ」と御間ひありければ、「下野の國」と申しける。「此の所は郡か庄か」と宣へば、「下野の庄」とぞ申しける。「この庄の領主は誰と云ふぞ」「少納言信四と申せし人の母方の伯父陵介と申す人の嫡子陵の兵衞」とぞ申しける』と載せ、次に『義經·陵が館を焼き給ふ事』を載せたり。面して地名辭書に「下野は下總の誤なるべき歟。たかのも高野渡にて(武藏北葛飾郡高野)、古布內、中戸の四二里許に其の名存す卽ち共に中世の下河邊庄内なり」と見ゆ。また鎌倉實記に「源三位の木下鹿毛といふ名馬は、深栖陵之助元重が贈る所なり」と。又東鑑卷八、十に深栖四郞、卷十に深栖太郞等見ゆ。また光重の男に松崎二耶重〓、同彦四郞重高、堀三郞賴重(諸陵頭、皇后宮侍長)、光貞(尾塞條參照)、及び深栖紀伊守仲重と左京大夫保綱ありて、分脈に「保綱-保光-光村-重茂四內人人금人-報保-長拳-長重何言代保養宗茂下野り兵庫展-保清-保忠-貞茂と見ゆ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)

系図・系譜

関連論文

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