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浪岡(2)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

2氏人歷名土代に「源忠具·康正二、正、五、從四位上。(出羽波圖)源具統·天文九、六、廿五、從五位下、侍從。(波岡)源具永·天文九年、彈正大弱、十七年正五位下、二十一年從四位下、左中將」など載せ、又「(羽州波岡)源具運·二十一年、從五位下、式部少輔」などあり。又郡中名字に「行岳〓。達鳴(一に連叟)の時、溟岡と書替ふ。御所·本名は中院、源氏、北畑殿。在京の時は萬里小路といふ。奥州國司顯家卿、右大臣の歿後、開伊船越御所と云ふ。大臣領、多田、水津(水濱)の二人は譜代侍也。奥寺、廣田の二人は重代侍也。三七七.品川、浦佐、横溝、櫻庭、播磨、神穴澤、船越、大浦.鵜取(鵜呼)、松橋。本參侍八人、常參侍八人、以上十六人也」とまた「都鍛流三郡大名は、鼻和郡三千八百間、大浦南部信州源盛信。平賀郡二千八百町、大光寺南部違州源政行。田舎郡奥法郡二千餘町、沼澁保内一千貫·浪岡御所源具水卿也」と3減亡小山内氏の津輕考に「北畠國司の子孫·津輕に來りて、何代相續せしにp。具永以前は舊記に詳かならず。此の永正年中の具水も何代目の人なりしや。顯村、具運の名もみえ、大御所、川原御所とて、兩前に分る。この川原の御所·彈正大弱と云ひし人·いかなる故にや、大御所へ切リ入り、相互に討死す。大御所の子三郞殿とて五歲なりしを、大御所の弟左衞門尉秋忠、これを守り立てしが、程なく秋忠病死、子左近·志を嗣いで補佐すといへども、途に亡さる」と。又津輕記に「天正六年、津輕爲信·波岡氏を滅す」と云ひ、津輕藩祖略記に궂正六年秋七月、公·浪岡城を取り、城主三郞兵衞尉北畠顯村を捕へて遣る。是よリ先、公·溟岡の博徒を誘ひ、刻を期し大常て城中に入り火を縱たしむ。我が兵·これに乘じ、鼓譟す。城中狼狽し、敢へて抗禦する者なく、博徒·顯村を與して至る。乃ち之を四麓禪院に送り、尋いで自盡す。北畠氏は陸奥國司顯信の裔、而して來りて此の地に據り、自ら門地を誇る。驕逸雷射、徒に編紳を學び、土人·之を御所と稱す。南部氏·其の衰弱に乘じて之に逼り、而して其の地を蠶食して、僅に浪岡近傍を領せしが、此に至りて遂に亡ぶ」と見ゆ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

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