浦
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
同行打工 ノムラノムラノムラ同盟三50信綱、貞綱より廿餘代なり」と見ゆ。大内氏實錄に「大永七年、陶.毛利、天野、益田、四家の兵を合せ、安南郡世能鳥子城を固む。三月島子城·降を乞ひ、城主野村木工尤は切腹す(房顯記、古文書)。夏四月七日、安南府中城を攻む。五月五日、府中城に戰ふ。六日、府中城の四固屋を拔く、八日府中城に戰ふ。十二日又戰ふ。十三日武田兵·府中城に來援し、松笠山を襲ふ。逆戰これを破る。三十日佐東郡久村に戰ふ(古文書)」など此の族ならん。又安四軍策に野村藤藏(吉川方)を載せ、西北、廣島府故家に「十日市大田屋先祖は京人、野村を氏とす。中ごろ尼子家に仕へ、中尾氏と稱す。元和中、善左衞門といへるもの、始めて府に來り、坊賈となる。今の六左衞門まで八代、先祖所持の佛像、府下明教寺に寄納して、今彼の寺の本尊たり」なども此の旅か。9,播磨の野村氏野村太郞兵衞祐勝は當國の人にて、本姓曾我、母里但馬の第なno野村は播州加古郡の村名也。幼より黒田家に仕へ、天正十二年春、紀州根來口質の注師等大或に打って出でんとせし時.味方數軍の中、只一人留リて大勢の敵を退けたりと云ふ。同十四年十一月七日、豐前築城郡宇留津城を攻め、同十六年春、中津川城に城井中務少輔が推參せし時、命によりて之を切る。慶長二年二月十四日、中津川に於いて死す、行年三十八歲也。その男に、野村市右衞門祐直あり、後大學、又隼人と稱す。朝鮮陣に赴き、慶長二年九月七日、稷山の戰に左膝頭に大傷を負ひ、拐脚となり、將軍の御前にても蹲踞して拜謁す。同五年秋、豐後石垣原にて大友義統の先手吉弘加兵衞統幸と、如水の先鋒井上九郞右衞門と攻め合ひし際、市右衞門手勢を引つれ、突掛りて之を追崩し、六千石を賜ふ。寛永八年八月四日嘉麻郡鯰田にて歿す、行年五十一歲。家臣には大鹽喜平次、篠倉喜兵衞、酒井彌次郞、爪田〓右衞門、林四郞兵衞などあり。10美作の野村氏新免家侍帳に「野村藤左衞門·下町土居」と見ゆ。11因幡の野村氏法美郡の名族にして、楠氏被官の裔と云ふ。12伯耆の野村氏日野郡樂々編神社往古家に此氏13藤原姓丹波の野村氏にして、氷上郡野村より起る。當村野村城は野村出雲守藤原家長の居城にして、家老を高橋左助と云ふ。丹波志に「野村出雲守藤原家長·子孫野村惣山」と見ゆ。14賀茂軽主上賀茂社の社家にして氏人の一たり。15源姓伊勢神宮太神宮司附屬職掌人家掌に「野村(御厨案主)源朝臣、初代正元」と見ゆ。16佐々木氏族第一項の族なるべし。伊勞の名族にして、三國地志に「員辨郡島田城は野村兵庫助居守」と、島田條參照。17美濃の野村氏大野郡野村より起り、野村城(豐木村野)には、弘安年間、野村常陸介住みしが、應永年間放火落城す。後慶長元年より、織田河内守長孝、及び其の子河內守長則二代住す。新撰志、大野郡(揖斐郡)野村條に「古城址。弘安の백、野村常陸介住みしが、應永の頃放火落城し、後年、織田河内守長孝こゝにありて、一萬石を領す。其の子河內守長則·家を繼ぎ、こゝにありしが、寛永九年六月卒し、嗣子なきにより家斷絕す。野太郎先生賴清美晶源氏、飛騨蒼太郎国成の子、また野太即順清の子なるよし、分脈系譜に見えたり。こゝの人か」と見ゆ。土岐賴藝家臣に野村氏見え、また野村越中など多し。18〓和源氏甲斐の野村氏にして、野村主水助勝英、同〓次郞、同兵部助勝政等、國志に見ゆ。又江戶幕臣源姓野村氏は源義光の裔と稱す。家紋瓜。「次郞右衞門-七右衞門-孫右衞門-正詮-政長」等、寛政系譜にあり。19菅原姓これも江戶幕臣にして、家紋梅鉢、五三の桐寛政系譜に「六兵衛直政(以心)-勝兵膏直次-傳左衛門勝仍-傳左衞門直超-直溫」等見ゆ。20小野性橫山黨武藏の名族にして、七黨系圖卷頭に在リ、但しその系·見えず。21佐々木六角流これも武藏の野村氏にて多摩郡柚木村の名族たり。新編風土記に「家の一軸、其の余舊記を藏せり。是を閱するに、其の遠祖は『宇多天皇第八の皇子敦實親王より十六代、六角大膳太夫滿經の二男野村左衞門太夫久綱より四代の孫、豐後守高貞が後裔なり。高貞·故あつて江州を去つて關東に下り、山角伊豫守に就いて北條氏康が扶助を乞ひしに、水蝶元年五月、高麗郡上我野に於いて、五十貫の地を宛行はれて使番をつとta其の後、國府臺合戰の時火炮にあた)り、疵を被り廢人となりしかば、澤井村大平と云ふ所に隱居し、七十五、或は八十五歲發す』と法諡は雲溪道龍菴主と號す。籠城の時、近藤出羽守助實が手に屬して由下の陣にて近藤と共に討死し、屍は由井の心源院に埋葬し、月窓道東と法諡す。貞常が子喜兵衞貞秀も使番を勤めしが、此の時父と共に討死を心がけしが、父顏に制止けるまゝ圍みを出で、雨間川の邊まで落けるに、家人戶泉、靑木、小山小河等に出合ひて、爾々の事共語るまゝに、南の方に火の手見えければ、今こそ貞常が最後ならんと、主從馬を双べて見やり、なく〓〓歸りしと云ふ。後年下山八幡の社内へ納めし貞常が、茜の母衣、近年までもありけるが蠢朽し畢んぬと扨又氏照自殺、小田原も落去し、関東御分國となりて、大久保石見守御代官たれば、召出されん品もあらば、うたてしと蟄居し、自らおさ人のごとくにて、寛永五年十二月七十五歲にて殘す、
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)