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津(9)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

9近江のト部建武の頃ト部左兵衞と云ふ人あり。元年三月七日、甲賀郡に不動寺を建立すと云ふ。古代占部の後裔か。10因幡の占部貞觀八年十月紀に因幡國巨濃郡人占部田主と云ふ人見ゆ。11筑前のト部川邊里太寶二年戶籍に「戶主ト部乃母曾等八十四人」見ゆ。なほト部首と云ふもあり。當國に甚だ多かりしを知るに足らむ。又後世宗像郡に占部甲斐と云ふ人あり、同郡草崎の古城に據る(續風土記)。蓋し古代宗像神社に奉仕せし占部の後裔なるんっ12對馬のト部當國は古代上縣國と下縣國とに分れ、而して兩國造ともに神祇官ト部に關係ある事、前引令集解の文によりて明白なるべし。蓋し四睡に位置し、早く支那のト法を受けしものと考へら30上縣下縣の兩國、卽ち後の上縣郡、下縣郡共にト部氏あり、ト事に携はりしを氏とせしと考へられ、而して其の位置より見て、國造の一族ならんかと思は30卽ち天安元年六月紀に「太宰府飛驛言上す。對馬島上縣郡振主帳ト部川知麻呂云々、」と。また貞觀十二年二月紀に「對馬島下縣郡人ト部乙屎麻呂、鶴鶏鳥を捕ふる爲に新羅境に向ふ、」など見ゆ。これより前、顯宗紀三年四月條に「日神人に著き、阿閉臣事代に謂つて曰く磐余田を以つて、我が祖高皇產靈に献れと。事代便ち奏して、神の乞により、田十四町を献ず。對馬下縣直·祠に侍す、」と。壹岐國のト部と同樣、當國人がト部に採用さるゝ起原は此處に存するか。下縣郡豆酸村(和名抄豆酸〓)に高御魂神あり、顯宗紀見ゆる處の高皇產靈神これなるべLo而して磐余田と云ふは大和國十市郡磐余の高皇產靈社にして、式帳の目原坐高御靈神社二座に當る。二座は高御靈神と天日神とを祀るなりと云ふ。又豆酸邑に豆酸大明神あり、式帳雷命神社に當るなりと。考證引用當國社家傳來神名帳に「豆酸雷大明神、今豆酸村にて龜トをする岩佐氏、正月に豆酸村の四なる社に詣て、此の神を祭リトをする也トは雷命より傳れり。雷命はト部(庭か)の神にて、神功皇后に隨ひ三韓に渡り、當國に住み給ふ。阿連村其の住處也と云傳へたり。占申も今阿連村より出す也」(覈錄)と。雷命は早くより中臣氏の祖鳥賊津使主に當ると說かれ、天應元年七月紀栗原勝子公の奏言に「先祖伊賀部臣は是中臣遠祖天御中主命二十世の孫意美佐夜麻の子也。伊賀都臣、神功皇后の御世、百濟に使し、便ち彼の土の女を娶り、男を生む、名づけて日本大臣と曰ふ。大臣遙かに本系を尋ねて聖朝に歸す、時に美濃國不破郡栗原の地を賜ふ、遂に栗原勝姓を負ふ」など云ひて中臣栗原連姓を賜ひし事あるも、栗原氏が勝姓なるは歸化族なる事著しく、又此の記事も史實と考へ離く、且つ姓氏錄既に之を疑ひて、中臣栗原連を未定雜姓に收むるを思へば假冒なるや想像するに難からず。されど伊賀都なる人·百濟より來ると說き、又當國龜トの法は雷命の傳ふる所と云ひ、而して龜トは支那傳來なるや明白なれば、此處に一道の脈絡あるにて、龜ト法は支那より百濟に傳はり、次いで此の地に渡りしかと考へらる。されば此の地の雷命と中臣烏賊津使主とは同名異人に過ぎずと想像せらる。兎に角、龜ト法は早く此ウラ〓 ウラヘの地に移り、高御魂神社の社人(下縣直)によりて都にも傳播せしものなるや必せリ。13壹岐のト部壹岐も對馬に次いで韓國に近ければ、早く支那の龜ト法傳はりしものと考へらる。而して中央に齋せしも對馬と殆んど同時なり。卽ち顯宗紀に「月神人に著きて謂つて曰く、我が視高皇產靈,天地を鑄造するに預る功あり、宜しく民地を以つて奉れ、我月神、若し請に依りて我に献らば、當に福慶あらんと。奉るに山城國葛野郡歌荒樣田を以つてし壹岐縣主押見宿禰·祠に侍す」とa神名帳當國壹岐郡に月讀神社、高御祖神社あリ、顯宗紀所載高皇產靈、月神は此れに外ならず。而して歌荒樣田の月神社は式帳の葛野坐月讀神社の根源なり。此の事件が龜ト中央傳播と關係深きは歌荒洲田ト部伊伎氏本系帳に「雷大臣命の于、眞根子命·神功皇后御世、眞根子父に隨ひて、三韓に赴き、歸朝の後、尙ほ壹岐島に留り、三韓を戌る。玆によりて子孫本姓を以つて、或ひは中臣と稱し、ト部と稱し、或ひは地名に依りて壹岐と稱す」と見ゆるに據りて窺ふを得ん。

系図・系譜

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