津野(在原氏族)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
2在原氏族土佐國高岡郡津野庄より起る。傳へ云ふ、在原朝臣經高、高崗郡の山中に移り、深山を伐リ開きて里となし、椅原と號す。其の五代孫彌次郞高行、津野庄一圓を領し津野氏を稱すと。佐伯文書、建武三年の堅田經貞軍忠狀に「津野孫次郞宗時(家時)」の加判あり。た「三宮、津野の人々、打つて出で、凶徒を對治す」など多く見ゆるは武家方にて、「津野大庄輔堅は源重等の楯籠る所、丸山城と對陣」とあるは宮方なり。當時、津野氏も南北に分屬せしかと云ふ。その後、五千貫の領主にして、文明十年八月文書に「備前守(津野之高)」見ゆ。南路志に「津野刑部少輪在原元實は、津野五千貫の主なり。津野山より須崎野見浦までを領知し、葉山須崎に城郭を構ふ。其の先祖は阿保親王の裔孫、在原朝臣經高、高崗郡の山中に來移し、深山を伐り開きて里と爲し、椅原と號す。椅木多きに依りて也。(一に三千貫)。經高五代の孫彌次郞高行、津野庄一圓を領し、高行十代元實に至リ、幡多郡一條殿に減ぼさる」と。又「津野本庄所務職〇事、地頭備前守繁高に對し、御契約成さるゝ上は、每年公用捌拾貫文、懈怠なく其の沙汰致すべき也。但し庄内に於いて合戰出來せば半清の沙汰たるべく、本國に動亂出來せば、三分二の沙汰たるべし云々。應安五年」(賀茂社舊記)と。また「久禮の城主佐竹掃部頭·急ぎ幡多の中村へ立ち越し、一條殿へ申上ければ、さらば加勢せよとて、雜兵二千餘騎、戶波の〓へ指し向けらる。此に於て津野の一族從士五十三人、雜兵都合三百八十餘人、永正十四年四月十三日、一所に討死す」と。元實の菩提所は須崎郷に在りて元亨院と號す。また「仲平兵庫元忠は津野を養育して、葉山の城を守りしが、一條房家卿の兵士·葉山へ押し寄せければ、仲平·如何にもして降參を乞ひ、津野孫次郞の名跡を世に殘さんと心を定め、降人になる。卽ち津野の本領相違なく、孫次郎に給はりける〇一條殿·此の勢にて高圖を責らるべしと聞えければ、太平、佐竹、波川、片岡、能津等、皆降參してける」など載せたり。その後、永祿中、津野勝興(勝奧)に至"、長曾我部氏に亡されて、元親の三男親忠·遺跡を襲ひて、津野孫次郞と稱す。土佐軍記津野城攻條に「高岡郡津野大膳太夫(姓は藤原氏、天兒屋根の苗裔、大織官鐵足の子仲平の末葉也。高岡西郡半山〓姫の野と云ふ所に居城有り)は、五千貫の主也。元親公·五千餘騎にて取り蒐リ、攻め玉ふ。此の由を聞きて、一條殿へ加勢を乞ひければ、一條殿·家老を召して評定せらる。土居が云ふ、元親が弓箭·日の出にて、土佐七郡の内、既に五郡を取りたり。津野家·果てたらば、當家の御大事これに過ぐべからず、急ぎ御加勢あれ、評定に及ばずと申しければ、
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)