津戶
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
武蔵、隱岐等に此の地名存す。日向記に堤內彌七郞·神名帳に尾張國中島郡にツツミツツミウ-ツツミハツツミヤ-ツト三八〇三 ツトツト-ツナツナ-ツナシマ三八〇四1菅原姓武藏の津戶氏にして、多摩郡津戶邑より起る。に「延文五年七月十日、津戶勸解由左衞門府中本宿彌勒寺邊古碑尉菅原規權(嗣)、子の剋死去、沙彌道經」と刻す。谷保安樂寺には、津戶·菅原姓に爲守が血文の阿彌陀如來は、由緒ある事をあまた傳へ、殊に津戶三郞彼の寺の重實とす。如來は一尺五寸、座像にて腹中に血文ありしと云へど、たる也。爲守が京都にて法然上人の念佛今はなし、朽廢し往生に歸依し、自害最期の時、血文を爲したる事は、淨土宗の翼賛遺事に見えたり、法然上人行狀傳記も大同小異にして、法名蓮實と載せ、熊谷蓮生と匹敵す。今寺傳には、爲守が父を爲廣、祖父を孝標といふ。孝標は常陸介に任じられて下國し、秩父權守平重綱が女を娶れりと、されば名高き日記の作者李標女は、重綱保天満宮の趾傳にが外孫也。但し分倍庄栗原〓谷保村の谷「菅神·太宰府へ左遷霜を送らる。の時、三男道武は玉川の邊に遷され、菅公薨じ玉ふを聞き、泣哀星の餘り、此の像を彫刻せられしといふ。道武·當地の縣主貞盛と云へるが許にありて、その女を妻として一子をまうけらる;これを菅原道英と號す。後孫津戶三郎爲守は僧法然に歸依して、無常を感じ、自殺せし」と傳ふ。此の社傳いぶかしといへども、此の邊、津戶三郞に因みある事はたしかなるべし(新編風土記、又新編風土記に多磨名勝圖會、地名辭書)。「谷保城は上谷保村の南にあり。三十間四方の地、周廻に土手あり。又南に續きて少しの土手あり。此の地に神明社あり、傳へいふ津戶三郞住居の跡なりと。又こゝより三丁程を隔て最跡とおぼしき所あり。櫓臺或は土居の遺跡あり」と。又埼王郡下忍村津戶も爲守の住地と云ふ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)