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河和田(藤原南家土岐氏流)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

8藤原南家土岐氏流工藤二階堂系圖に一駿河權守維景-景任(甲斐)-資廣-行最-景澄-景光(工藤庄司)、第時澄」と見ゆ。9〓和源氏土岐氏流中興系圖に「甲斐、〓和、土岐賴〓の男出羽守賴雄·之を稱す」と。.10藤原南家高倉流尊卑分脈に「高倉範季の子「範茂、(甲斐守、參議、甲斐宰相と號すいー範繼ー範藤」と。東鑑、承久三年條に「甲斐宰相中將範茂。」また承久記に「甲斐の宰相中將範しけ(義イ)」とある、これなり。11但馬の甲斐氏太田文に「城崎郡新田庄地頭方、二分方、拾七町四反小二拾八步(地頭甲斐入道爲連後家尼四憶)」と見ゆ。12阿波の甲斐氏故城記に「上郡美馬三好郡分、甲斐殿、武田、源氏、芰萎」と。次項と關係あるか。13大中臣姓土佐國の豪族香宗我部氏は東鑑卷三、四、七、所載甲斐小次郞秋家の裔と傳へられ、その文書、並に系圖に「甲〓又太郞重通次男甲斐孫四郞秀賴入道性海」(介良庄四養寺文書)、甲斐二郞殿、甲斐二郞太郞殿、「甲斐小次郞氏秀子息次郞太郞安秀」(西山氏所藏文書)、香宗我部甲斐次郎殿母儀(富家村々民所藏康安二年、物部庄内惣案主職沾流狀)。また系圖にては、秋家は甲斐源氏一條次郞忠賴の子と傳へらるゝも、甲斐小四郞秋家は姓大中臣,一條次郎忠賴の家人にして、忠賴の死後、歌舞堪能を以て召出され、後には公文所の寄人となる事、東鑑、元曆元年七月十八日條に「故一條次郎忠賴家人甲菱小四郞秋家、」十月六日條に「甲斐四郞大中臣秋家」等あるによりて明白なりと十〇猶に香宗我部條を見よ。14河野氏流筑前宗像社中津宮の神官河野は二の甲斐と云ひ、遍津宮神官は一の甲斐河野と稱す。前者の方本家にして伊豫河野の族なりと。15菊池氏流肥後國の大族にして名聲高Loその出自に関しては、菊池傳記に「菊池次郞武房の三男六郞武本、甲菱國に幽居し、子孫甲斐を以て氏となす。武本よリ四代甲斐六郞重村、後に民部大輔と云ふ、」と。又菊池系圖に「菊池次郎武房-武本(甲菱六郞、干孫·阿蘇家臣と爲る〕」と載せ、一本猶ほ武房の弟に甲斐十郞を收む。初め武本の兄菊池隆盛·父に先立つて死す。故に隆盛の子時隆·祖父武房の遺跡を續ぐ。時に武本·遺跡を相論し、遂に鎌倉に至りて北條家に訟へ、判ありて地を時隆に歸す。武本之を憤り、鎌倉諏訪氏宅にて時隆と差し違へて死す(菊)池系圖、大日本史、事蹟通考)。而して甲斐系圖に「藤原武本(菊池六郞、武房の三子)-五郞武村父に從ひ鎌倉に赴き、父變死す。よりて武村·逃れて甲斐國に至り、都留郡に停り住す)-六郞重村民部大輔、重村·甲斐に在り、兵を集め、之に將として徃つて足利尊氏に屬す。尊氏·命じて肥後守護と爲し、菊池武重を討たしむ。重村大いに喜び、以爲らく躍龍の時至れりと。麺ち兵を引きて鎭西に到リ、家號を改めて甲斐と爲し、延元三年九月、大友の家人等と兵を合して菊池を襲ふ。菊池武重之を聞き、合志の鞍獄に逆戰す。重村大いに敗れて豐後に走り、終に日向に塵き、土持榮綱に寄寓す)-重亜(甲斐伊豆守)、弟重安〔甲斐 出羽守、應永三十四年生、明應四年乙卯三月朔日死、年六十九、法名攝憐祖傳)直)、其の子相摸守観秀〔入道宗立)、相續きて在城す。親宣は日州高智穂の郷士也」と。重安は「應永三十四年生、明應四年三月朔日死。」その子重久は「享德二年生、永正九年五月二十二日死。」その子敦昌は「天文七年六月十八日死、年五十五、文保十三年總昌院を建立す。」その弟家城長門守誠昌は日向高千穗河内城主なりき。次に親昌は「母下城重昌の女、」その子鎭昌·天死し、重並の會孫右馬九守昌(伊豆守)嗣ぐ、隈莊條を見よ。甲斐大和守親宣は重綱の三男、一本に重村の子とす。久しく日向鞍岡に潜居せしが、阿蘇大宮司惟豐の述れ來るや、之を迎へて主となし、士豪を聚めて其の兵を將あ、永正十四年惟豐を矢部に還す。:れより其の家老職となり、諸臣の上に居リ.南郷岩神を居城とす(事蹟通考)。國志に「阿蘇郡草部岩神山甲斐親宣は、武功を以つて益城郡御舟城の主と爲る」と。親直は大友義鑑より、一字を賜ひしなりと。後阿蘇惟豐より一字を賜ひ、惟親に改むとの說あり。剃髮して宗運煎夢と號す。天文十年十一月、御船房行反するや、惟豐·其の子惟將、並に親直をして之を攻めしむ。惟豐·功により御船城を賜ふ、五百四十町と領せりと。大慈寺記錄に「最初百貫の旦那、御船城主甲斐民部大補親直とあり。宗運兵法に精しく、智略あリ、天正九年、相良義陽を破りて之を殺す。天正十一年七月五日病死。其の子親秀入道宗立は大友記に三河守鎭隆入道宗立と見ゆ。佐々成政に破られ、後毛利勝信の兵に穀さる。その第に孫次郎、仙千代、十郞あり、九州記には宗立の第に玄蕃九惟義(新編古城考に次郞惟義)、惟久(五郞惟秀)を擧ぐ。宗運の一族に甲斐正運あり、託麻郡健軍城主となり。その子親英は宗運の聟にして、宗運が贈る狀、事蹟通考にあり。その子長鶴丸放縱にして亡ぶ。次に親房は岩尾城守將にして、その子彌左衞門、九兵衞、共に加藤清正に仕ふ。安西軍策に豐後甲斐左馬助とあるも此の氏なり。16宗氏流宗氏系圖に「惟宗判官知宗の子某、甲斐六郞、文永十一年蒙古賊と小茂田に戰つて敗死す」と。17大江氏流長井甲斐守大江泰秀等の于孫も甲斐を以つて稱となす。東鑑三十三、-重昌-重藤-重方七山左衞門太郎を島地開封守1重綱-親宜-親直親秀-女本申解久當きないお召民起大輔每日限定親房左近番艦、武藏守親常千層重久敦昌- -親昌-鎭昌大房丸風見同年次郎和夏守品Will常城長門守誠昌福昌高等守天文二十一、三二七生書誠運-女同点小利四八一昌興長武昌に庫朝一本甲斐系圖には「武本-武定-武治-武忠-忠重-重村-重盛-重俊-重家-重元-重治-重定-重續-重並」とし、又一本には「武本-隆長-重幸-重伸-重藤-重村」とす。且つ菊池傳記に「民部大輔重村を武本四代の孫」とす。眞實に重村を菊池武房の後裔とする時は、年代より推し、此等は世代の敬·多きに失すれど、或は此の方·反つて事實にして、武房、武本の奇など云ふは後世の假冒に過ぎざるか。甲斐國云々も容易に信じ難し。國志に「釜城郡御船城は永正中より甲斐大和守說宣、其の子民部大輔惟親(初名親重久大房丸和夏守三十四、三十八に甲斐守秦秀、三十四、三十五、三十六、三十七、三十八、三十九、四十、四十二、四十三に甲斐前司泰秀とあるは此の流也。18雜載前太平記に甲斐入道宗忠。東盤三十八、三十九に甲斐前司實章、四十に甲斐二宮二郞、四十二に甲斐前司宗國、四十九、五十に甲斐守公成、四十九、五十、五十一、五十二に甲斐三郞左衞門尉爲成、四十九、五十一に甲菱五郞左衞門尉爲定、(爲成は前太宰少貳爲佐の孫なり)。又承久記に「かいのむまの助宗泰」見ゆ。現今、猶ほ磐城、岩代、豐前等にも存す。又有名なる醫師に甲斐の德本あれど、こは一時の稱に過ぎず。19甲斐源氏源義〓の裔なる源氏を云ふ武田氏族と云ふに同じ。20甲斐德川家カフフノトクガハを見よ柯斐カヒ美濃、土岐光行の族、賴〓三、男賴雄の後なりと云ふ。揖斐氏の誤にあらざるか。イヒ條を見よ。貝カヒ甲斐氏に同じきか、豐前下毛郡の豪族にして、天文永錄の頃、貝兵庫頭、貝左衞門尉等あり。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)

系図・系譜

関連論文

外部リンク