永源(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
繁盛-オクラカ-オクリ九一七 維幹-爲幹-重幹-重家-重能(平治合戰時、於嶋坂討死)-重成(源平合戰時、於壇浦討死) -重廣-重朝-重信(號南方)-賴重-重宗(右衞門尉)-重政(遠江守)-重貞-詮重(遠江守) -氏重-基重-重弘(彈正忠)-重久(法名吉阿)-眞重(三郞右衞門尉)-重昌(雅樂助、於參州平田合戰討死) -憲重、弟竹千代丸-正重-正次(十左衞門、生國三河)-正盛植左衞門)、thoまた「重弘の弟滿電(常陸介)-助重(常陸介) -助正-忠幹」など見ゆ。家敕角の内に月、丸に立波。新編國志には「小栗、新治郡小栗保より起60重幹の四子重宗·小栗五郞と稱す、新治郡小栗保に居る、因て氏とす。子重義あり、五郞と稱す。其子重成、十郞と云ふ。」とあり。源平盛衰記に小栗十郞重成を載せたり、平氏を四海にうつ。これより前、東鑑治承四年十一月八日條に「今日武衞鎌倉に赴き給ふ、便路を以て小栗十郞重成が小栗御厨八田館に入御云々」と。其の他ニ、三、五、九、十三に重成を載せ、又+、十五に小栗二郞、三十八に小栗次郞重信(寶治元年·關氏の地を收む、)四一、四五に小栗彌二郞朝重見ゆ。重信の子頼重·文永六年、建治元年並に大使役たり、子電宗、正應三年大使たり(大使役記)。その子重政(彥次郞、左衞門尉、遠江權守)八男あり、重貞(掃部助)嗣ぐ。下野中村を食む(長沼家記)。建武二年、北條時行に黨す。時行の黨潰敗、重貞、八月十四日其の將名越式部大輔を斬りて尊氏に降る(金勝寺本太平記)。其の子詮重(遠江守)に二子、行重、重弘あり。行重後に氏重と改め、五郞と稱す。子基重(小次郞)、其の子滿重、孫次郞と稱す(長沼文書、烟田文書)。應永廿二年、上杉禪秀に與黨す。禪秀敗るゝに及び足利持氏に降り、多く其の地を割らる。滿重之を怨み、自ら安んぜず。廿五年鎌倉にありて一色左馬權頭と共に叛を謀る。其の計發覺し、逃れ歸り城に據る。上杉定賴來り攻む(鎌倉大草紙)。六月滿重出て降る、特氏更に遺地を割ちて其の死を宥す--木文書、長沼文書、畑田文書、鹿島文書、喜連川判鑑)、廿八年滿重·岩松天用と其の餘黨を招集し、再び城に據て兵を擧ぐ(烟田文書、判鑑)。廿九年六月、上杉定賴、小山滿朝等來り攻む(鎌倉大日記、小田文書)。三十年五月、持氏自ら將として來り、小栗、眞壁二城を攻む(烟田文書、判鑑、神明鏡、大草紙)、八月二日大いに敗れ、滿重支へず、城陷る。滿重は子の助重と參河に逃れ、其の族貞重に倚る(長沼文書、小栗文書)。三年參河に發す(藤澤長生院記)。助重は彦次郎と稱す、大草紙には小次郞とあり、同書に「今度小栗忍びて三州へ落行けり。其の子小次郞は竊に忍びて関東にありけるが、相州權も、堂といふ所へ行けるを、其邊の强盜ども集ける處に宿(藤澤道場緣起に當國の豪士横山大膳)を借ければ、主の申すは此の牢人は常州有德仁の福者のよし聞く、定めて國身の寶あるべし、打殺して取るべき由談合す。去り乍ら健なる家人共あり、いかがせんといふ。一人の盜賊申すは酒に毒を入、呑せ殺せといふ。尤と同じ、宿々の遊女共を集め、今樣など唄はせ踊り戲ふれ、かの小栗を馳走の躰にもてなし、酒を勸めける。其の夜酌に立ける照姫といふ遊女、此間小栗にあひなれ、此の有樣を少し知けるにや、自らも、この酒を呑まずして有けるが、小栗を憐み、此の由をさゝやきける問、小栗も呑むやうにもてなし、酒を更に呑ざりけり。家人共は是をしらず、何れも辭伏てけり。小栗はかりそめに出るやうにて林の有間へ出てみければ、林の內に鹿毛なる馬を繋ぎて置けリ。此馬は盜人ども海道中へ出、大名往來の馬を盜み來けれども、第一の荒馬にて人をも、馬くひふみければ、盜ども叶はずして、林の内に繋ぎ置けり、小栗是を見て寝かに立歸り、財寶少々取特て彼馬に乘り、戰を進め落行ける。小栗は無双の馬乘にて片時の間、藤澤の道場へ馳行、上人を頼み云々。其の後永享の比、小栗三州より來て彼の遊女を尋ね出し、種々の寶を與へ、盜共を尋ね、皆誅伐しけり。其孫は代々三州に居住すといへり」と見ゆ。(藤澤道場の縫起にもあり。)助重は其の後幕府に請ひ、嘉吉元年舊地に歸り、佐竹氏を破り、遂に舊邑を復せした、康正元年成氏に攻められて城陷る。野史に「助重入道して宗丹と稱し幕府に近侍す、その子助正、初字大六、常陸介と稱し、丹州峰山を賜ふ(小栗實記と。されど疑はし」と見ゆ。茨城郡島羽田邑に小栗氏墓石、小栗堂あリ、堂に水栗氏夫妻の像あり、又小栗緣起(元祿、丸山可澄の作)あれど、この地に小栗氏の遺跡ある、疑ふべしと。