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水主(2)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

2氏人承久記卷三に水野左近(山田の次郞が郞等)を載せ、その後、南北朝の頃.水野致秋あり。「水野平太致秋·軍忠を申す事。右最前より御方に聽參じ、去月十九日、武州鶴見宿より、馳せて關戶にまず。同二十三日、三浦人御の時、供奉に會し、同二十八日鎌倉合戰に軍思を致し畢る。其の後平塚宿に至り、御供に會する上は御判を賜ひ、後證に備へん爲め言上如件。正平七年三月三月。新田義興、一見了(花押)」と(張州雜記抄)。此等に據れば、又南朝に屬せし也。又春日井郡上水野村感應寺に古き位牌一基ありて、「義雲院仁峰宗智居士覺位」としるし、うらに「應永十九壬辰歲十二月二十八日、尾州入尾城主水野備中守平致高と見えたり(尾張志)。致秋の子か孫ならん。次に長倉追罰記に「永樂の錢は三河の國水野が紋」と。又尾張志等に「小川三郞重房の子小川又三郞重〓(東艦に小河兵衞尉重〓)·春日井郡水野の地にありて水野氏と云ふ。其の裔議人貞守·又水野村に住す。其の他、河村の人水野右京進、眞福寺村の人同治郞右衞門、同次右衞門等あり」と。又永祿六年諸役人付に「外樣衆大名在國衆·水野下野守(三河)」を載せ、織田系圖に「信長の末女·水野總十郞室」と。又尾張志に「春日井郡志談味の城址志談味村)。尾陽雜記に城主は水野氏右衞門佐といへるが住し、福島正則·〓須在城ロハ、屬したりしが、正則·安藝の廣島に移りし後、浪人となる、子孫今農民となりて當村にあるよし記せり」と。又織田眞記に水野信元、又美作記に「水野六左衞門勝成·浪人して美作に來り、安東兵衛に據り、後備中三村紀伊守を頼み、家親の女を妻とし、勝重を生む」と3居城知多郡〓川城(〓川村)は水野侯の舊城にして、尾張志に「水野藏人貞守より四五代打つゞき在城し、右衞門太夫忠政の女·傳通院君も當城にてうまれ給へ!!下野守信元朝臣橫死の後、廢城となる。祖先小川重房より、この地の人なるべけれど、其の居地は富城跡か、又外の地か傳へなければ今は知がたし」と。又同新城は「水野機部正忠守の居城にして、備後守近長に給ひて居住し、後又上野の安中へうつりしのち廢城となる。藩輪譜に水野彈正少弼近長は、右衞門太夫殿の第八の男、藤二郞忠近の嫡子也。德川殿の御家人となりて、慶長五年の秋、關ヶ原の戰には海道の御共にて候ひける。同六年二月、尾州國小川の城を給ふ。同九年一萬石、叙爵して備後守に任じ、其の子備後守元綱·正保元年間五月二十九日、上野田安中のたり。されば正保のはじめまで城はありし也」と又常滑城(常滑村)には水野監物直盛居住す、故に直盛を常滑殿と稱せしとぞ。又奥田城(北奥田村)は「水野日向守の居城」といひ傳へたり。水野和泉守忠重·〓川の城に住し、その子六左衞門勝重·當城を築きて住み、後に日向守に任ず。又平島城(平島村)は水野藤助の城跡と云ひ、村木碧(村木村)は、水野信元·三河の刈屋の城、及び當郡〓川の城を守りて、尾張の織田家に屬し、駿河の今川家の下知に從はず。天文年中、義元この村木に砦を築いて、三河の松平甚太郞家忠をして守らしむ。永蘇三年正月二日、水野の兵士と松平越中守忠廣とこぜりあひありし古跡なりと。又下野守信元は細目城に據る、細目條を見よ。又愛知郡の水野氏は「蔵人貞守三世の孫·監物忠綱の二男·信長に仕へ、戶部村に住す。嫡子三右衞門光直-彌左衞門光種-彌左衞門光政-久左衞門光兼-彌五左衞門光綱也」to又丹下城(鳴海驛丹下)には永祿の頃、水野帶刀住し、又山崎村の士に水野ホ4水野侯に一忠政の時に至り、三河國刈屋城を合せ、我が身·刈屋城に在つて、嫡子下野守信元して、小河の城を守らす。天文十年、忠政の娘を岡崎殿(廣忠)へ參らせられ、明十一年十二月二十六日、德川殿(家康)を設け玉ひ、十二年七月十二日、忠政卒し、嫡子信元·家を權ぐ。駿河國今川殿に中違うて、尾張の織田備後守信秀に心を通ぜらる。岡崎殿·無二の今川の方人にて、信元の振舞ひ安からずとて、忽に北の方を送り返させ玉ひけり。かゝりしかば、国家心よからず、岡崎殿うせ玉ひ、德川殿御成人の後に至リ、御外男なれど、合戰やむ事なし。和泉守忠重(此時藤十郞)は信元の舍弟なりといへども、兄弟の中、常に不快にして、鷲塚といふ所に引こもりしが、永祿六年のや、一向事修の門徒等、叛きて、德川軍·大事に及ぶと聞き、水野太郞作、村越又市郞を引具し聰せ參り、手を碎きて戰ひ玉ふ事、度々におよぶ。これよりして、常に德川殿に從ひ、軍の先をかけずといふ事なし。天正三年の冬、信元うたれ玉ひし後、同八年九月二十三日、累代の地なればとて、り忠重に賜はりしな此の後、或は信長の催促に依て、軍をひきゐ、或は德川殿の大將して合戰す。織田殿うせし年、島居元忠と共に、甲斐の古國府に陣どつて北條の勢を打破り、信雄·秀吉と中たがうて、軍起りし時、忠重父子·北畠殿の爲に、星崎の城を攻おとし、小牧の陣に從つて、長湫に戰ひ、蟹江の城を攻む。今年十月、秀吉·伊勢國に攻め入ると聞て、忠重たゝ一勢寄手の多勢に打向ひ、水を阻てゝ陣を取る、その勢に憚りて、秀吉桑名に入る事を得ず。其の後、關白家に參リしに、桑名にての振舞ひ、又年比の武勇を感じ玉ひ、石川出霊守と同じく武者奉行をぞ給はりける。天正十五年七月三十日、豐臣の姓を賜ひて、叙爵す。筑紫、小田原等の陣に從ひ、慶長五年の秋、石田等が兵起リし初め、池鯉館の宿にして加々井州八郞秀盛が爲めにうたれ死す、年六十歲。嫡子日向守勝成·家をつぐ、童名は國松丸、成人して藤十郞と名のり、甲斐の古國府の戰に、みづから内藤の何某を討取る。後六左衞門と名乘リ、天正十五年、

(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)

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