毛守
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
備前兒嶋郡に存す。毛屋ケヤ和名抄、越前國大野郡に毛屋郷あり。常山紀談に「黑田長政の物見毛屋主永云々。東照宮、主水の本姓は何といふにかと仰せければ、かたへより毛屋と申すと申せば、いやとよ北國の毛屋といふ所にて功名せしゆえ、毛屋と姓を更へつると聞えたりと仰せ有けり、」と見ゆ。毛野主水は黒田長政家臣傳に「毛屋武蔵武久は、幼名成十七、後に金十郞と改む。又後に毛屋主水と號す。筑前入國の後、武蔵と改む。江州神崎郡の人也。父は田原奥次郞と云ひ、信長公と佐々木と取合の時討死す。虎千代は孤となりて有りし處に、建部傳内と云ふ者に養育せらる。十六歲の時、和田和泉守に仕へ、後六角氏に仕へ、更に山崎源太左衞門に仕ふ。又其の後柴田勝家に仕へ、長篠合戰の時、人にすぐれて高名をぞしたりける。勝家感前入國の時、隨はざるものを亡さる。此の時、金十郞、毛屋畠と云ふ所にて强敵二人を討取けり。以後其の姓を改めて毛屋とよばれ、名を主水と改め、三千石を賜ふ。その後、前田利家、池田信輝、佐々成政等に歷仕し、成政切腹の後、黑田長政に仕へ、領地三百石を賜ふ。秀吉公、三木城を攻め給ひし時、主水·蒲生氏〓が危難を救ひし事あり。其の後、氏鄉會津四十二萬石の大主となりし時、主水に一萬石を與へんと。暇を乞ひて氏〓へ行かんと思ふ志あり。長政免し給はず、菅和泉、津田長右衞門など云ふ者を請人とし、若し主水をケンヤマ志摩に存す。ツルギヤマケムヤマ藤原南家工藤氏の旅なり他國に走らしめば、知音の士共、各々切腹さすべしと、堅く警を以つて命ぜられしかは、他國へ行く事成らざりけり。慶長五年九月十四日、關ヶ原合戰の後、加錄四百石を與へ、後名を武藏と改む。武蔵若き時、渡り奉公せし故妻なし。こゝに豐前の城井中務が家人に、鬼木掃部と云ふ者は、長政に背きて亡されけり。其の娘、第蛛兩人、落人と成りて居たりしを、長政の命にて、武蔵これを娶る。其の生るゝ子を太右衞門と云ふ。武藏が妻の弟は鬼木惣左衞門と云ひ、黑田美作に仕ふ、今にその子係あり。武藏は寶永五年、七十五歲にて筑前にて病死す」とあり。雞矢ケヤ和名抄、筑前國志摩郡に雞求〓あり、後世芥屋村と云ふ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)