殿野
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
大和國吉野郡殿野邑より起る。此の地は地名辭書に「今大塔村と改む、舊十二村莊と稱し、元弘年中·大塔宮護良親王の潜居したまへる地なれば、今大塔に改む。殿野は太平記戶野に作る」と。太平記巻五に「(親王)·十津河へぞ著かせ給ひける。光林房玄尊·さもある人の家なるらんと思ぼしき所に行きて、家主の名を問15.是れは竹原八郞入道殿の場に、戶野兵衞殿と申す人の許にて候」とある、これ也〓大日本史に「尊雲(護良親王)·裝うて修驗者と爲り、熊野に赴く。旬餘にして始めて十津川に抵る。云々。光林房玄尊·適々人家に造る。戶野兵衞なる者也。云々」と。又太平記に「戶野兵衞·申すにや及び候。身不肖に候へども、某·一人だに斯る事ぞと申されば、鹿瀨、蕪坂、湯浅阿瀨川、小原、芋瀨、中津河、吉野·十八郷の者迄も、手刺者の候まじきにて候とぞ申ける」と。此の裔については、吉野舊事記に「伶原氏(谷瀨村に有り、殿野氏某、元弘年中、兵部〓親王(大塔宮と號す)·熊野へ落ち玉ふ時、吉野十津川〓伶原八郞が館に御座あ!。入道の女·夜のをとヾに召され、然して正慶二年の秋、宮の忘れ形見に若宮·生產坐す。建武二年、大塔宮誅せられし後は、深く隱し養育し奉る。亦天下大亂、後醍醐帝·吉野山に皇居坐す。爰に大塔宮に付き從ひ奉りし平賀三郞、片岡八郞、宮薨去の後は、出家通世の身となり(片岡は快心と號し、平賀は專心入道)、其の後曆應四年、此の兩人·熊野參詣の刻、伶原が館に入りて問ひければ、早人は身罷りて候と答え、其れより入道が甥殿野兵衞が許に行き、伶原のこと、亦御息女のこと、只ならざる身にてましませしかば、其の事聞かまほしく尋ね申しければ、兵衞·答えて申す樣は、其の宮既に生長座す。唯人ならざる御身なれば、某が許に隱し置き奉りて、今年九歳になり玉ふよ平賀、片岡、大に悅びて、斯くて南朝の興國三年十一月八日、殿野兵衞重友、平賀、片岡の三人心を合せ、御母堂を隱し、若宮を具し、南帝後村上天皇に、四條中納言隆資痢を以つて奏聞す。主上·大に叡感有りて、早く官軍を催し、朝敵退治の謀を巡らすべしとて、二品親王の宣旨をぞ衆り玉ふ。故に親王の舊臣·赤松、和田、楠片岡、平賀、殿野等、此の宮を取立つと云ふ」と。吉野山志に據るに「兵衛の子孫·本願寺宗の僧となり、宅を以つて寺となし、西〓寺と名け、血統連綿·今に至り絕ゆるなし」と(大和志料)。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)