殖田(讃岐公姓)
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概要
関連文献
姓氏家系大辞典
1讃岐公姓山田郡植田郷より起60又殖田ともあり。讃岐公の後にして景行皇子神櫛王の後也と云ふ。南海通記に교田郡植田郷は地勢險圓にして壞地豐饒なり、一烟こゝに居を占めて世々此に住す。其の奇別れて三家となる。神內、三六、十河と云ふ也。南朝の御時、細川〓氏南朝に候し、讚州に渡海して、三木郡白山の麓に陣を居え、國中の御方を招きしに、十河十郞一番に參候す。云々。此の時十河十八歲也と傳來也。足利家に至て、細川讃岐守四國を管領す。故に讃岐公と稱する事を遠慮して、自ら植田氏と稱す、」と。サヌキ條、十河(ソカハ)條を見よ。全讃史に「讃岐朝臣永成の子元重、その次子政成、采を神內に受く、是れ神內氏の祖也」と永成の事は承和三年三月紀に見ゆ。又戶田城條に「山田郡西殖田、今四土居と云ふ。今之左市右衞門宅後、今稻田と成る。元層の時、殖田若狭尤信則あり、屋島の役·源延尉に屬して功あリ、元龜天正の間、殖田美濃守安信あり、兩殖田、及び菅澤、朝倉に采す。蓋し世々此の城に居るならん。子孫世々植田村に居る、村名を以つて稱と爲す、後村尾に改む」と。又「東川城、朝倉村にあり、植田美濃守之に居る、山田郡植田村の主也と見ゆ。殖田氏譜·神櫛王の後とす。2〓和源氏伊那氏流信濃の名族なり。又上田とも云ふ。伊那爲扶の子芳美爲家の孫公光·植田四郞と稱す。中興系圖に「〓和、本國信濃右衞門尉滿快八代太郞公光·稱之、上田共」と見ゆ。其の他飯田氏諸にもあり。