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武(原北家花山院流)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

2野宮家藤原北家花山院流)花山院定熙の二男忠長の後にして、其の子植大納言定逸·此の家號を再す。「忠長-定逸-定緣(權中)-定基(中院通茂の子、権中、國學者) -定食-定之-定晴-定顯-定業-定靜-定功-定穀」也。德川時代、羽林家、新家、花山院流にして、百五十石、後二百石、(明治二百八十石餘)。侍西池、大阪店寺は盧山寺。内40現今子爵。と見えた成政に仕へ、加賀國河北郡倶利伽羅城を守る。系圖には「(中興)幸許(野々村常陸守、本國丹波、公方家に仕ふ)-幸之(野々村主計頭、織田備後守殿に仕ふ)-幸政(野々村三十郞、生國尾州、天正十年六月二日、信忠卿に供奉し、二條にて戰死、時に四十八歲)-幸成(野々村伊豫守、始め吉成と號し、後に吉を改めて、幸と爲し、秀吉公、秀賴公に仕ふ。元和元年五月七日、大坂にて戰死、時に五十五歲)-幸次(野々村次兵衛、秀賴公に仕へ、慶長十七、父に先だつて卒去、時に二十九歲)」と。次に幸成の第「込政(野々村因幡、妨 つ名は右衞門九郞、内記、後に因幡と號す。生國尾州、始め秀吉公に仕へ、御勘氣を蒙りて、高野山へ蟄居、後に山内對馬守一豐·遠州長濱浪人分にて忍んで罷り有り、慶長五年、一豐·土佐國を拜領し國政を司る慶長十九年五月廿一日卒、四十五歲)。其の第幸包(野々村四郞右衛門、生國尾州。始め中村式部少一氏に仕後家康公、秀忠公に仕へ、千五百石を領し、御使番役たり。寛水二年正月廿日卒、五十五歲加賀國河北郡倶利伽羅城を2丹波の野々村氏野村條を見よ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)

系図・系譜

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