武藏(2)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
2先邪志と胸刺との關係當國々造に關しては、國造本紀に「先邪志國造·志賀高穴穗朝世、出雲臣の祖、名は二井之字迦諸忍之神狭命十世の孫兄多毛比命を國遺に定め賜ふ」と載せ、此の記事は、古事記神代卷に「天菩比命の子建比良島會此れ出雲國造、先邪志國造、上蒐上國造、下蒐上國造、伊自牟國造、島津縣直.遠江國造等の祖也」と云ひ、又日本書紀卷一に「一書曰、云々。天穗日命、此れ出雲臣、武蔵國造、土師連等の遠祖也と云ふと一致す。又國證本紀、相武國道條に「志賀高穴穂成特号、式間道税、唐やムサ近江國蒲生郡武佐村より起和名抄「志賀高穴穂唐や:弟式を命をに定め賜又高麻國通條に志賀高穴龍朝御代先國造に定め賜ふ」邪志國造祖、兄多毛比命の見大鹿國直をと云ひ、又伯岐國造條に「志賀高穴種朝御世、牟邪志國造同祖、兄多毛比命の見大八木足尼を國造に定め賜ふ」と見え、又大島國條に穴穗朝、无邪志國造同祖、兄多毛比命の「志賀高見穴倭古命を國造に定め賜ふ」とあると符合せり。しかるに國造本紀には此の先邪志國造の次に、重ねて「胸刺國造。岐門國造祖兄多毛比命の兒·伊狹知直を國道に定め賜ごと云ふを擧ぐ。よりて當國には、もと學者ありて、先邪志と胸刺との二國存せりと主張する前者を足立方面とし、後者を多摩方面に當つ。新編武蔵風土記稿に「上古、國造時代には、今の武藏國は、知知夫(今秩父)、先邪志(武蔵なり)、胸刺の三國の地なり。其の開圖の次序は知知父を初めとす(中略)。无邪志國の地域今考ふべからずと雖、舊本足立府を載するに撞れば、足立埼玉邊數郡の地、其の管内K.T.其の界域は成務天皇五年に定められ、又兄多毛比命を國道と定めらる。此ムサシ平の圓、死邪志國道のこと聞えず當時の國府は足立郡に在りて、今字に大宮宿邊に遺跡存す。(按ずるに國造本紀、朝延の號を開く、又應神天皇の御今考定して、站く此の御字とす)、胸刺國造を伊狹知直に定らる。胸刺·今何の地な東に先邪志あれば、ること知らず。然ども四に知知夫あり、今の多磨郡の地なるべし」と。猶ほ今日も此の說を主張する學者あり。されど胸刺も要するに、ムサシと訓ずべきものなれば、同地方に同名の國が相並んで存在せりとは考へ雖く、殊に安閑朝に當國造が屯倉として献じたる横淳、橘花、る時は、多氷、秩父を除く武藏は、及び倉根の四地の位置を考ふ總べて一國造の支配下なりしを想せざるを得ず。故に先邪志と胸刺との二國なりしとの說は成立せざるべし。よりて國造本紀の胸刺國造云々の條文を窺ふに、怪しむべき點多し。先づ本書は各條、何れも創置の年代を載せたるに、これのみなし、これ此の條が、初めは一條文として獨立せしものならざりしを表はすに非ずや。次に兄多毛比を岐門國造羅と云ふは説な岐閉國道は、古事記に「天津日子根命は、道尻岐南國造云々等の祖」「道口岐〓國造は輕島豐明と載せ、また國造本紀に(應神)御世、建許呂命の兒字佐比乃編を國遺に定め賜ふ」など見えて、道尻も道口も兩方とも先邪志國造とあれば、凡河內氏族なり。豫に兄多毛比は前條に岐門國造ならざるは明白なれば、こは他の條より誤り入りしものとして、削除するの要あり。次に胸刺は前述の如く、ムサシにて、无邪志と同一なり。よりて思ふに、これはもと先邪志の橫に胸刺と註せしものが傳寫の誤りにて一條として記され、兄多毛比命以下の文が其の下に竄入せしにあらざるかを思はしむ。此等によつて考ふるに、蓋し舊文には、。次の如くありしか。先邪志國造(關利)志賀高穴穗朝世、出雲臣祖名二井之字迦諸忍之神挾命十世孫兄多毛比命兒伊狹知直、定圓國造而して兄多毛比以下を胸刺條に移すが爲に、兄多毛比命のみは重複して兩方に出ムサシ
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)
尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[8]:120頁