正曆四(9)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
9山城の出雲臣出雲臣は山陰道を上「楯縫郡大領リ、丹波に出雲神社を建て、更に山城に入れる者頗る多し。姓氏錄、山城神別に「出雲臣、同神子天日名鳥命之後也、」と。また「出雲臣、同天德日命之後也、」と見ゆ。和名抄·愛宕郡出雲、(以都毛、有上下)とあるは、此氏によつて建設せられたる〓にして、神名帳、愛宕郡に出雲井上神社、出雲高野神社、宇治郡天穗日命神社等見えたるは此の氏によりて創建されしものと考へらる。神亀三年出雲痛雲上里計帳に「紙市戶主出雲臣冠戶主從八位下勳十二等出雲臣真足等百二十三名、」雲下里計帳に「出雲臣阿麻福賣等百二十五名、」また國郡未詳計帳に「出雲臣智麻留賣等六名」等見ゆ。皆此の族なり。10河内の出雲臣姓氏錄、河内神別に「出置き、天穗日命十二世孫宇賀都久野命の後也」と見ゆ。11大和の出雲臣長谷寺緣起文に「葛下郡人出雲臣大水」なる者見ゆ。12播磨の出雲臣出震臣は山陰道を上り丹波より山城に入ると共に、但馬より播磨に出で、畿内の地に移れる者も亦多Lo播磨風土記、賀古郡條に「印南別孃の掃床として仕へ奉れる出雲臣比須良比「葛下うりた 賣を息長命に給ふ、」と。また延曆十年十一月紀に「播磨國人大初位下出雲臣人麻呂に外從五位下を賜ふ、稻を水兒の船瀬に献ずるを以つて也、」と見ゆ。13出雲臣族出雲臣の一族なる事を氏とせしものなり。神龜三年の山城國出雲〓雲上里計帳に「出雲臣族果安外四人、〓下里計帳に「出雲臣族〓虫賣、戶主出雲臣族足牌外十人、」また天平五年の計帳に「戶主出雲臣族智緣外六人」など見ゆ。14出雲國造出雲國一國を支配せし大國造にして、出雲臣の宗家代々補任せら중卽ち第二項に述べしが如く、字迦都久野命以來、出雲臣族中宗家の者代々此職に補せられしが如し。古事記に「天菩比命の子建比良島命は、此れ出雲國造、云々等の祖也、」と見え、國造本紀には「出雲國造、瑞羅朝(崇神)天穗日命十一世の孫宇迦都久怒を以つて國造と定め賜ふ、」と載せたり。出雲國造の歷代は第二項出雲臣條に述べたり、而して孝時の于〓孝に至りて嗣子なし。よりて弟孝宗その後を嗣ぎしが、其の弟貞孝も亦別に奏聞を經て國造職となれり。卽ちこれ千家北島國家の分立にして、懷橋談に「出雲國造は昔一家なりしが、四十八代孝時の時、嫡子〓孝子なかりければ、〓孝の弟孝宗に家を譲る、之を千家の祖とす。孝宗の弟貞孝は、また別に奏聞を經て父祖のゆづり狀にまかせて、神火相承け侍る。此より兩國造に分る。年中行事祭禮をも月代りにつとむ」とあるが如し。兩國造分立、神事分擔の事は、康永三年六月五日の和奥狀に、孝宗貞孝當國杵藥大社神主國造職、所領並に神事等每月御供奉幣、臨事御神馬以下得分物は、正月より三、五、七、九、十一月は孝宗出仕致し、之を執行すべく、次にニ、四、六、八、十、十二月は、貞孝出仕致し執行すべき事、正月七日並に三月會御神事、三頭は孝宗出仕と云ひ、得分と云ひ、御差符判形等、之を管領すべく、但し此の內相撲頭一方、右神物内、神主得物に至りては貞孝之を管領すべし。五靈會並に九月九日御神事は出仕と云ひ、得分と云ひ、貞孝之を管領すべし。造營の時柱立の儀と權上遷宮の儀とは、孝宗出仕と云ひ、得分と云ひ、泰孝、孝時、〓孝の例に任せ、孝宗之を管領すべし。所領等の事、大庭、田尻、揖屋庄、阪本村、杵築宮内田畑、及び院內市場浦々、並に鹽屋濱等は半分宛、年貢得分物に於いては、孝宗貞孝兩方の代官、相共に内檢を遂げ、半分宛其の沙汰を致すべし。次に百姓等の事は人數分別、之を召仕はるべし。上官並に神人等、日來の如く幸時〓孝の例に任せ、得分住宅等改動あるべからず。右上裁蕃居の間、永く此の趣に背かず候、若し相互違亂濫妨を致さば、守護の御計ひに於いて管領を一方に付せられ子細を注進せらるべく候。更に一言對論に及ぶべからず候、仍つて和奧狀件の如し。康永三年六月五日出雲孝宗出雲貞孝とあるによりて窺ふに足らむ。されど兩家の爭論は此の和與によりて全く收まりしにあらず、此の後も時に起りて德川の初期に及べり。泰孝-孝時-〓孝-孝宗-直岡-孝國(千家) -貞孝-資李-幸孝(北嶋)所(千家) (北嶋)以下センケ、キタジマ條を見よ。15出雲大社祠官千家北嶋の兩國造ある事前述の如く、次に應安三年八月の社家連判狀に、-沙彌道意、別火財貞吉、勝部〓實、出雲盛〓、儈道雲、出雲孝忠、權檢校出雲經孝、出雲孝氏、僧榮孝、沙彌宗訓等を載せたり。卽ち別火、及び總檢校、上官、中官、大行事等ありしなり。而して又後世、上官、社家、權社家、中官、伶人、子良、神人、被官等の職二百餘人ありたりとぞ。其他惣檢校職あり、懷橋談に「昔は國造の下に神主檢校の兩職あり、文治年中には內藏資忠、武士に屬しながら神主と稱し惣檢校に補したりしが、其後に孝房還補せられぬ」よ。東艦、杵築大社記等によるに、源頼朝、中原資忠の功勞あるを以つて、國造孝房の檢校を停め、資忠を以つて之に代ふ。建久中遷宮、國造に非ずして神體を奉ずる、古今に其の例なきを以つて、資忠を罷め、孝房の職を復せしなり。東鑑には出雲國大社神主資忠と栽せたり。16出雲連出雲氏が前述の如く臣姓を稱するは太古以來の遺習に基くものにしイツモて、中央のカバネ制度に則りて賜はれるものに非ずと考へらる。(詳細は拙著上代に於ける社會組織の研究を見よ。)卽ち原始的カパネに過ぎざるなり。よりて中央に上りて相當の地位にありしものは連姓を賜はれり。これ出雲連にして、弘仁三年、及び天長十年には更に宿禰姓を賜はれるものあり。17抵津の出雲連延曆廿四年十一月紀に「攝津國人外從五位下出雲連廣貞等、左京に附す、」と。なほ天長十年に宿禰姓を賜はれるものも此の圓にあり。18出雲宿禰京師にありし出雲氏の宗族ならん。延曆十年九月紀に「近衞將監正六位下出雲臣祖人言ふ、臣等の本系、天穗日命より出づ。其の天穗日命十四世孫を野見宿禰と曰ふ。野見宿禰の後、土師氏の人等、或は宿禰となり、或は朝臣となれり。臣等同じく一祖の後にして、猶ほ均養の仁に漏る。伏して望むらくは彼等宿禰の族と同じく改姓の例に預らむ、と。是に於いて姓を宿禰と賜ふ、」と見ゆ。姓氏錄左京神別に「出雲宿禰、天穗日命子天夷鳥命の後也」とあり。19出雲宿禰弘仁三年六月紀に「左京人從五位下出雲連廣貞、姓を宿禰と賜ふ、」と。また天長十年三月紀に「左衞門醫師從七位上出雲連永嗣、連を改めて宿禰を賜ふ、」と見ゆるは連姓より宿禰姓となれるものなり。廣貞は醫道の大家にして、大同三年五月·安部眞道と共に、大同類聚方一百卷を撰び、其子峰嗣は勅を奉じて金蘭方五十卷を撰ぶ。20攝津の出雲宿禰天長十年二月紀に「攝津國豊島郡人散位從七位下出雲連男山、河邊郡人正六位上出雲連離君、出雲連伊都岐麻呂等、男女廿二人に、姓を出雲宿禰と膓ふ、」と見ゆ。21近江の出雲宿禰近江にも此の氏あリしと見え、天慶八年日野大宮梁簡銘に神主正六位上出雲宿禰貞主など見ゆ。22出雲朝臣貞觀十二年三月紀に、「散位從五位下菅原朝臣峯嗣卒す。峯關は左京人也。父出雲朝臣廣貞、醫師に長ず、云☆。貞製十年、出雲姓を改めて菅原となす。土師、出雲同祖なるを以つて也」と見ゆるにより出雲氏にも朝臣姓ありしが如く考へらる。23出雲積積は原始的姓なり。天平十一年の賑給歷名帳に「波如里出雲積諸女外 イツモイツモイツモ-イツモイ三八一、、漆沼〓工田里出雲積島女外一、犬上里出雲積近津女、伊知里出雲積身手外一,神戶出雲積稻依外一、」また天平六年八月の出雲國計會帳に「右衞士出雲積三國等合三人遂亡狀、神門軍團五十長出雲積友麻呂、」など見ゆ。出雲臣との關係詳かならず。24出雲積首前記の出雲積の有力なる者が更に首姓を賜へるなり。眼給歷名帳に「出雲〓朝妻里、出雲積首外五、伊知里出雲積首石勝外一、滑狹〓出雲積首石勝外三、」また計會帳に「進上意字郡出雲積首石弓」など見ゆ。25無姓の出雲氏出雲臣との關係詳かならず。大寶二年九月紀に「出雲狛、臣姓を賜ふ、」と。また天平十九年六月紀に外從五位下出雲屋麻呂、臣姓を賜ふ、」など見えて、出雲國造と同樣出雲臣となりしものあり。26近江の無姓出雲氏竹生島緣起に日 日泰三年十月、寬平前帝禪定法皇行幸、水工寮を召し、三間堂を改めて七間之殿を作る。淺井郡檢校出雲春雄、勅を蒙つて之を構造す、」と見えたり。こは前述二十一項の出雲宿顧等と同族なれど、そのカパネを省略せしものか。27越前の無姓出雲氏天平神護二年の越前國司解に額田〓戶主出雲牧夫と云ふ人見ゆ。23出雲族出雲氏の族人なりと云ふを氏とせしなり。天平五年山城計帳に出雲族刀自賣と云ふ人見ゆ。出雲臣の部曲などにや。29中臣流中臣氏系譜に「賴宣(內田出雲守)-守宣(出雲小大夫)」と見ゆ。父が出雲守たるより、その國名を稱號とせしなり。30秀〓流藤原氏武藤系圖に「大藏大夫賴平-筑後守資額-右衞門尉賴茂-太郞左衞門尉賴房-武藤出雲守資氏-氏通(出雲九郞)-能村(出雲四郞)と見ゆ。れも前と同樣なり。博多日記裏書に「出雲道照陳狀(嘉曆四年四月)、云々、」また「御代官道照請文(嘉曆元年)云々、」とも、載せたるも、此の族か。又層陽軍記に「新少貳冬尙は緩部城を守られけるが、馬場、橫岳、武藤、出雲等を催し之を拒ぐ」と。こは此の出雲氏なるべし。31大和の出雲氏十市郡の豪族にして、十市氏庵下の將なり。恐らく上古出雲臣より系を引けるものなるべし。32佐々木氏流佐々木五郞義〓當國守護職となり、子孫出雲温岐に榮ゆ。隱岐、村、鹽冶(鹽屋)、高屋等この族なり。佐々木條を見よ。33稻田宮主裔出雲國飯石郡須佐の須佐家は稻田宮主脚摩乳手摩乳の後裔と稱し、成務天皇以來代々出雲を氏とすと云ふ。されど信じ難かるべし。詳細はスサ條を見よ。34東艦出雲氏には三十八、三十九に出雲前司義重、四十、五十に出雲次郞左衞門尉時光、四十、四一、四二、四四、四五に出雲五郞左衞門尉宣時、四一、四五、四八に出雲權頭爲政、四五に出雲前司等見え、又太平記十に出雲介親連あり。