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概要
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姓氏家系大辞典
6府中大掾新編國志に「建保三年、大掾資幹(馬場石川次郞と稱す)、多氣太郎義幹の跡を承けて在廳と爲るや、居館を府中に構へ、在職の間は此の地に在りて府務を行ふ(石川文書、稅所文書、惣社文書等參酌)、石岡城·是れなり(稅所文書)。是の時に當りて、當國の門旅分れて七黨となる。一は國府大掾と云ふ、これ資幹の近親、南北二郡の族を云ひ、二に行方、これ行方郡の支流にて、行方忠幹の後也。三に眞壁、これ眞壁長幹の流なり。四に小栗、これ小栗重家の後なり。五に吉田、これ吉田盛幹の子孫なり。其の中·吉田、石川、馬場を以つて、吉田三頭と稱す。六に東條、これ東條思幹の流なり。七に鹿島、成幹の後なり。すべて平氏·七郡地頭と稱す。この諸流より大掾を指して大惣領と云ひ、凡そ七黨出軍の時、各十一隊となる。又年々相替して鹿島の大使役を動む。然れども支流輩は、大掾の官に任ぜざるを以つて、祭使動仕の問は、一に大掾に准據し、假に大掾と稱す〓高泰幹陳狀、鹿島大使役記、稅所文書)。天正中に至る迄、退轉なし(大宮司文書、鹿島願書)。延元三年七月、小田、志筑の官軍來りて大掾高幹を攻む。時に高幹·石岡城にあリ、稅所虎鬼丸以下の一門家人をして、是れを防がしめ、市川、舟橋の邊に於いて終日相戰ふ。小田等終に兵を引いて歸3B尋いで國中の官軍、源親房を迎へて、これを小田城に入れ、專ら皇師を動む。高幹·石岡城にありて、これと抗衡す。高幹の子詮國の時、府中城成る(吉田文書、淺羽本大掾系圖)。應永年中、大掾滿幹は、上杉彈秀に與黨したるを以つて、一亂平ぐの後、鎌倉の沙汰として、水戶馬場の所領を江戶通房に給せられ、滿幹·水戶を離れ、府中につぼむ」と。永享二年、滿幹敗死して、大掾氏の嗣·絕ゆ。佐竹義憲、其の子義倭をして、來りて府中に居らしむ。臣屬相輔けて、府事を視ること數年、賴幹嗣となるに及んで、義倭·太田に歸る(佐竹系圖、大福宜文書、烟田文書、大掾系圖)。賴幹は大掾の族人を以つて、入りて嗣げるなり。其の子〓幹の世より、大掾氏いよ〓〓衰1、纔かに府中の領主たり。〓幹の主孫を貞園と云ふ、佐竹氏に歸伏す。其の子を〓幹といふ、天正十八年、豐臣秀吉·小田原を征す。佐竹義宣往きて謁せしも、府中〓幹造らず(小幡文書)、北條氏政と約し、秀吉を拒ぐ(系圖)。巳にして小田原の敗聞至る、急に義宣に記して降を秀吉に納る。八月義宣·江戶重通と隙あり(郡珂氏手簡)、十二月兵を率ゐて水戶城を陷れ、其の屬城に及ぶ。遂に進み來り、府中を攻む、園城數日、城中力竭き、〓幹自殺して城陷る(系圖、新編國志、同補遺)。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)