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權藤

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

筑前筑後の名族にして、權藤彌六郞氏の權藤氏略譜に據れば、『肥後國飽田郡に權藤村あり。現今は護藤村に屬し、權藤、中權藤、下權藤五丁新開、濱の五字に分かる。太宰管内誌、筑後三池郡の部に、「三池中務少輔康親、早く肥後國伊倉北方地頭職、同國所分、同國權藤高塚等を領知せしむべき事、右動功の賞となして宛て行ふ所也、云々。至德二年五月二日」と。此の權藤村は此の氏の名字地なりと言ひ傳ふ。權藤隼人藤原長常は、豐後大友義 長、義鑑、義館の三代に歷仕す。永祿年中、當時大友の領國なりし筑後國竹野郡東郷の内、坂井、末次、上古賀、下古賀、外一村、都合五ヶ村を義鎭より宛て行はれて坂井村に居る。(以上の諸村は筑後在來の國侍なる大名衆星野中務少輔、大名衆間注所刑部少輔、高一揆衆菅四郞次郞、高一揆衆陣の内基、高一揆衆小河中務少輔等の領邑間に、帶の如く介在す)。隼人に三子あり、長を理兵衞、仲を九郞左衞門常重、季を次郎右衞門と云ふ。天正十五年六月、九州平均し、小早川隆景の領國となりし折、隼人所領の内、坂井、末次は長子理兵衞之を襲ぎ、下古賀は次子九郞左衞門常重之を襲ぎ、上古賀は季子次郞右衞門之を襲ぐ。十九年二月七日隼人卒す、法號宗永。隼人の妻は豐後大野郡藤北鎧岳城主戶次丹後守鑑連(道害)の家臣江上惣兵衞の女なり。又隼人は豊後日田郡津江山城主津江某と同僚にて親交あり。隼人の所領地より東南一里弱、水繩山の北麓に福丸城址あり。其の近傍に權藤屋敷權藤谷なる地名今尙ほ殘れり。其の権藤屋敷の一隅に大なる天燃石の碑あれど、銘なし、里民は之をゴンヅウサマと尊稱す。太宰管內志、豐前田川郡の部に「天正十五年三月、吉川元春等に命じて岩石城を攻め給ふ。彼城には、秋月が家人權頭忠右奮門等楯籠りけり云々、」また日向國の部に度長五年十月朔日、宮崎城を攻落し、城代權頭平左衞門、其の嫡子長左衞門、二男八右衞門己下、二百餘人を討ち取る云々」とo諸史には孰れも權藤忠右衞門、權藤平左衞門(積盛、秀盛、行滋ともあり)とあるに、管內志に權頭と記せるは、何か據り所ありての事か。平左衞門の子孫を、延岡南町眞宗本派光勝寺住職權藤圓海と云ふ。同家にては昔より權藤にて、權頭と稱したる事なL、位牌も權藤と記しありと。居城址は權藤が城と稱して、今尙ほ宮崎町の附近に現存せり。平左衞門が使用せし長刀は、稀有の利器にて、黑田如水長政甚だ秘識し、權藤が長刀と稱せる由、栗山大膳記、星野家譜などにも見ゆ。平左衞門の仕へたる高橋右近太夫種統は、初め九郞元種と稱し、秋月種實の二男にして、高橋三河守鑑種の養子となり、高橋家を襲ぎ、豐前田川郡香春岳城に居り、天正十五年六月、日向延岡に移封されたる人なれば、平左衛門は、蓋し秋月家よりの附家老にして、彼の岩石城にて戰死したる秋月の家人權藤忠右衞門の近親にてはあらざるか。又太宰府安樂寺の神官に、中古より構堂氏あり。今日まで調査したる同苗の分布區城は、筑前、筑後を主とし、肥前の內兩筑に接近せる一部分、後日田郡、豐前字佐郡に點々あり。日向にも二三軒あれども、之れは平左衞門の系統なり。思ふに箕前に中古原田なる豪族ありて、世々太宰大監なりしかば、世人呼んで原田權頭と稱せり。其の子孫分れて原田、秋月、高橋、江上の諸家となる。幡藤氏も同族にて、或は原田橋頭の權頭を採リたるにてはなきか。慶長寛永年中の氏神の社殿再興棟札等には、權藤九郞左衞門尉藤原常重、權藤市兵衞尉藤原常信などゝ自書し居れども、何故に藤原氏を稱したるや記錄に逸したれば不明なり。紋章は昔より丸に松皮萎なり。隼人は長常と稱したるも、二代目よりは世々常を謙字として、襲用し來りたるを見れは、本來の講字は、常にして、長の字は準人が主君大友義長よリ一字を授かりたるなどにてはなきか』。云々。日向國縣の城主高橋右近大夫種統家臣に權藤平左衞門尉種盛あり、宮崎城を守る。又中津藩士に見ゆ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)

系図・系譜

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