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橫田(首藤氏族)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

8岩瀨岩代岩瀬郡横田の豪族に横田治部少輔あり、伊達氏に降る。成實記に見HOO 9首藤氏族岩代國大沼郡横田邑より起증山内氏の一族にて、ヤマノウチ條に詳か也。又中興系圖に「橘田·藤原、国際奧橫田、山內型部の後輩」氏人は北越雜記に「大國にに横出左馬助を置く」、また新編會津風土記に「大城主左馬助は氏勝の猶子」など見え、又永祿に橫田山内越前守俊泰、天正に橫田日向、同出羽、同兵庫、同周訪、同安藝、同丹後、同大學、寬文に橫田三友齋俊益等多し、山内條を見よ。又大沼郡「大醫村舘跡は中山城と稱ふ云々。天正十八年、伊達氏·橫田を攻めし時、山內氏勝が猶子橫田左馬助某と云ふ者、此の城に據りし」と傳1,又「本名村舊家藤左衞門。横田土佐某が子孫なり。土佐は山内氏勝の支族にて、氏勝に從つて、攻戰の毎に、戰功多し。氏勝所領を失ふの後、土佐も浪々の身となり、仕官せず、〓里に居て終れり」と。又「越河村舊家藤三郞。山内氏勝が猶子横田出羽が九代の後なり。氏勝·出羽と左馬助とを人質として、政宗を方便、在所に歸りしに、二人も亦逃れ歸る。明年、氏勝·松坂峠にて敗軍せし時、出羽·衆に先ちて戰ひ、命を殞せし」と云ひ、又會津藩儒に横田〓四耶俊益あり、河求、三友等と稱す。10陸奥橫田五郞行長あり、橋崎氏の祖と云ふ(三部少史)。カキザキ條を見よ。11諏訪神家族信濃の豪族にして、諏訪系圖に「高木行澄-家行(橫田六郞)」と見ゆ。更級郡に橫田川原あり、城條參照12甲斐四山梨の豪族にして、もと「近江佐々木氏の族、次郞兵衛義綱·甲賀郡橫田にありて、此の氏を稱す。寧紋四目結の割りたるなり、釘拔に似たり。又六本の簡車」10五世備中守高松·本州に來30軍艦には「本國伊勢の人」と見ゆ。其の養子「十郞兵衞康景(實は原美濃守長男)·長篠に戰死す。其の男甚右衞門尹松(一に光胤、又尹植、甚五郞)は森上德川に仕ふ」と。第廿四項參照。又信玄の家臣に横田備中守(津久條)、橫田十郞兵衞(和田條參照)等見え、前述勝賴臣橫田甚右衞門は高天神城を守る、鳥居條參照。その男を述松と云ふ。その他、次項を見よ。13武田氏族巨摩郡の豪族にして、武河衆の一、一條氏の後裔也。又南部地方の名族に見ゆ。14丹後丹波郡主基村城(岡枳村)の城主に横田傳太夫あり。15丹波天田郡の名族にして、丹波志に(岡枳村)の城橋崎氏の祖 ヨコタヨコタヨコタ賣「横田三郞左衞門藤次·子孫大身村。大坂浪人也。屋敷跡を横屋市と云ふ。此の續きに、先祖の森威德·天神と云ひ、子孫祭る」と。猶ほ見田條を見よ。16出雲仁多郡橫田郷より起る。この地は田中八幡社元曆二年文書に出雲國橫田莊と見え、明德記に「仙洞御領出雲國橫田莊」と。氏人は源平盛衰記に「出雲の住人橫田兵衞維行」見ゆ。17〓和源氏吉見氏族石見國の豪族にして、吉見頼忠の二男賴畢·横田邑に居り、橫田孫四郞と稱す、その後也と。18美作笠庭寺記に「久米北條郡錦織郷(齡丗技)横田宗重」と云ふを載せ、下リて三星山城士に横田又左衞門あり。又小原勢に横田氏·見え、又勝北郡小吉野七箇大社諏訪宮棟札に「大願主橫田左金吾藤原朝臣繼家、同七右衞門延次」とあり。19安藝藝藩通志、高田郡條に「橫田氏。其の先橫田備中は武田信玄の將たり。其の子重兵衞、其の子藤右衞門〓春·秀額に屬し、大阪敗後、三原に來住す。初め備中が子重兵衛·信玄より藥方を授けら3.故に家今に至るまで、返魂丹及び疵藥を製す」と20大伴姓気前國住吉神社神官にして、東鑑等に見ゆる佐伯昌助の裔なりと。佐伯條を見よ。又橫田丈夫氏云ふ、「余が家往古より筑前國住吉に在りて、代々住吉社の大宮司なりしが、祖先は道臣命にして、其の七世孫は室屋大連と記錄にあり。然るに欽明紀によれば『大連金村(室屋大連の孫)は住吉宅に居り、病と稱して朝せず云々』とあり。余が家の記錄の一部·天正年間の兵燹に罹りて、不詳の點あり。唯住吉社に奉仕せしは、住吉大神を墓ひて九州に下りしものなりと、世木言傳ふるのみ。かの治承の頃、國事に奔走して、東艦にも名を留めたる佐伯昌助は、住吉神官中の偉物にして、其の子孫代々當社の紳職を襲ぎ、後には氏を橫田と改めたり。神木一夜の松が起き上りし時の神官橫田左衞門佐盛秀は、此の佐伯昌助の後裔なり。されど横田家も享保年間に至つて退き、後には他より再仕の勸めありて止まざるを以つて、相續者を立て、橫田の神職を繼がしめ、明治に至る」と。盛秀は永享頃の人にして、天文の頃には佐伯宗能あり。又天和の頃權田左藏秀盛ありて、昌助の十七世孫と見ゆ横田氏又云ふ「秀盛に第三人あり、盛重、秀満、昌勝と云ふ。皆昌助の霊示に恐れを抱きたる爲めか、身を農に委して、盛重は茂蔵、秀滿は酒蔵、昌勝は勝蔵と改名す。茂藏は字横田に住す、この地は橫田家祖先傳來の墳墓の在る所にして、元文三年、横田盛買·地蔵尊を作りて、舊來の墳墓を合祀するまでは、橫田家の墓四十有三ありて、内三箇は土墳なりと云ふ。該個所には細き道ありて、北側には住吉大宮司宮崎家の墓あり、南側は橫田大宮司の墓地なりしなり。而して當時は該墓地四部の堤防は字養島に通ずる道路にして、此の堤防は那珂川の護岸堤防なりしと云ふ。滿蔵と勝蔵とは字養島に住す。祖先佐伯昌助が別墅なりし白葉の森の在る邸内の一部也。又橫田大宮司の住せし本邸は、住吉宮四に接近し、宮崎大宮司の住せし邸に接す」so信否猶ほ考ふべし。21肥後應仁私記に「横田勘左衞門最正(肥後熊本住人)」と見ゆ。22桓武平氏千葉氏族阿波國の豪族にして「名東郡分、橫田殿·千葉、平氏、月に星の丸」と載せ、また上郡美馬三好郡分に「横田殿、千葉、平氏、月星の丸」と見じ23物部作大和族にして、横田隼人久勝は治道村橫田城に據る、橫田物部の裔也と。松倉政秀の母は此の氏也2國民郷士記に「橫田平城、橫田治部」と載せ、又「横田治部(天孫降臨二十五部横田物部)、橫田隼人久勝」と擧げ、又一本に「松倉一族橫田喜右衞門、橫田治部(横田物部)、橫田隼人久勝」と。又簡井諸記に「和州筒井流藤原姓(世々橫田家と云ふ。元と畠山家臣と云ふは誤り也)、松倉彌七郞藤原政秀(母橫田物部姓也)」と、松倉條參照。但し橫田(秀雄)大審院判事(現今明治大學々長)は傑本氏の裔也とぞ。櫟本條參照。24佐々木氏族近江國甲賀郡横田より起증8家譜に「佐々木三郞秀義の末孫次郞兵衛尉義綱·淺井伊豫守吉高に屬し、戰功に依り、橫田川和泉村のほとりに釆地を受け、家號を橫田に改む」と。十二項參照。又中興系圖に「橫田·宇多、モリ貫」と。吉高五代孫「備中守高松(武田信虎、及び信玄に仕へ、三千貫、天文十五年信州戶石戰死)-十郞兵衞綱松(實は原美濃守虎胤長男、彦十郎、長蘇戰死) 1基左衛門尹松武田漫德川氏に仕へて五千石)-次郞兵衛送松-備中守由松-又助道松-備中守濱松-和泉守準松(筑後守、九千五百石)-甚右衞門以松」にして、家紋四目結、釘拔、矢羽車。三大夫盛次は戶川藩家老となる文鳥取藩士横田友次郎靖之は動王家、生野の義擧に加はる、雷正五位。又知恩院承仕に橫田攝津、國學者に橫田惟章(宗甫)、願寺用人に橫田内融、橫田志津馬等見え、又伊豫喜多郡藏川に橫田傳松君あり。又書家に横田復庵汝圭、茶人に横田宗朴、家傳史料に横田七郞兵衞等見ゆ。又上野の儒者橫田宗碩術は字を伯愼と云ふ。又遠社の儒者に横田保兵衛茂(松甫、松靜)あり、柏園と號す。又山城、攝津、大和、伊勢、美濃、尾張、武藏、備前等に多く、また京都東高瀬宮濱町の人橫田敬藏事宜(清兵衞)は書肆の主人なれど、勤王家にして、從五位を贈らる。又大正年間、司法大臣に下野の人橫田千之助あり。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)

系図・系譜

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