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楠木(熊野國造族)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

9熊野國造族熊野新宮三方社中に楠木氏あり。文亀二年文書に「楠木四大夫廣荷、十番頭楠木正治」等見え、又社僧十五人の内に「楠東實坊」あり。其の系圖に據れば、物部氏の族にして、「熊野國造大阿刀足尼二十六世和田右兵衞良正の二男良成-成民(次郞左衞門尉、河内國石川郡に住む、千早七郷領主)-正俊(和田刑部尉)-正玄(左近太夫、和田五郞、千劔破城に住し、七〓を領す) -正成-正儀-正勝-正理-行康(楠木雅樂介、赤松勢の爲に足を傷けられ、熊野本宮に住む)-正俊-成良-正隆」と見ゆ。なほクマノ、ワダ條參照。10熊野新宮神命又本宮和田舊記に據れば「熊野擁樟日命の後裔富彦(貞觀二十八年に紀伊を去りて京師に移る)有明ニ仕フ左京太夫宗廣和田中務大輔良守女子-正定-女子後裔楠木正氏-女子亦提供ニ移むし(楠木正價ノ贈子) (八世ノ張) -良宗-秀正正康-後裔正之。家之紋菊水也、」と見ゆ。11其の他、日高郡富安莊下富安村大事寺は、天正十七年、湯川光春の家臣楠藤兵漸建立し、子孫代々相續すと云ひ、又在田郡南村則岡氏は、左馬頭楠正儀の子河內三郞正則の裔と云ふ。又伊都郡牲川氏の諸に「多々良義春四世孫太郞重範·楠正成の祖父掃部頭盛仲が女を娶る」と見えたり。猶ほ二階堂條參照12伊勢の楠氏三重郡の豪族にして楠〓に據る。この地は、五鈴遺響に「和名抄所載の〓名に非ず。古昔精氏居住によつて名くる處なるべし」と。而して此の氏は、勢州四家記に「北方の諸家とは三重郡云々、楠家云々」と載せ、北畠物語に「永祿十年八月、信長·楠の城に押寄せらる。楠家·終に降參し、先驅の案内者と爲る、」と。楠家は五百人の大將也、また伊勢軍記に「永祿十一年二月、信長·北伊勢へ發向、千五、字野、赤堀以下、悉く幕下に屬す。諸勢を率して、楠の城を攻らる。楠家勇を揮ふといへども、遂げずして終に降參す」と見ゆ。ヽ其の居城は、三國地志に「楠儀·按ずるに本〓にあり、楠家數代居守、」また「楠十郞·按ずるに、太閤記等に出づるものは、天正十二年五月、戰死のこと也。一說攝津守主水など云ふ者あり。系統詳ならず」と載せ、名勝志に「楠城址は本郷村字風呂屋の田國中に在リ。今·三拾坪許の小丘にして、松樹一株を存す。傳へ云ふ、往昔楠易孝十郞)之に居る一說に、楠正成遺腹の子諏訪十郞正信なるもの、信濃より來りて、此に居ると云ひ、又國司北畠氏の末裔なりと云ふ。敦れが是なるを詳にせず。六代孫貞孝(十郞)は、永祿十一年二月、織田信長と戰ひ、敗續して出て降る(北畠物語に永錄十年八月に作る)。後信雄に屬し、信雄が羽柴秀吉と兵を交ゆるの時、尾張國戶田城に在りしが、天正十年三月、秀吉の攻むる所となりて戰死し、(或は云ふ、天正十二年五月、美濃國加賀の井城に處となり、秀吉に害せらると)、本城又陷リ、遂に廢す」(五鈴遺響、桑名志、古屋草紙、正覺寺舊記)と見ゆ。なほ員辨郡にも楠氏あり。永祿中、楠正具·治田城に據る。太閤記に、楠七郞左衞門橘正具居すと云ヘリ(五鈴遣響)。又東村字神崎に東城址あり、濠壘の址今に存す。古老傳ヘ云ふ、楠正具之に居ると。正具は治田城主なれば、其の支城ならんと。又本村楠家舊記に「正成十世の孫久間木正矩、此處に螯居し、慶長十七年七月暴死す」と(名勝志)あり。13常陸の楠氏久慈郡(那賀郡)藥王院延元二年文書に瓜連城あり。楠正家·此れに據りて、義士を糾合す關城釋史「延元元年正月、尊氏大敗して遂に兵庫に逃走し、將に筑紫に赴かんとす。乃ち佐竹義爲、義春の兄弟を常陸に還し、東國經略を以つて之に屬す(太平記)。是の月、楠河内守正成、その族左近藏人正家を遣はし、兵を率ひて常陸徇へしむ。那珂氏の族·之に屬す(佐竹文書、戶村本佐竹系圖、藥王院文書)。按ずるに、中山信名·曰はく、總社文書に常陸國司代左近將監橋の押ある、弘安八年九年の文書二通あリ。楠系圖に據るに、正成の父正康は官·左近將監なり。則ち橘は此の人ならん。よりて思ふに、正康が其の甞つて常陸に在廳して、國人と舊あるを以つて、正成正家を遺はす耳と。然れども官に證とすべきものなし、惜しいかな乎。又一本楠系圖を按んずるに、正家は正成八世祖好古の後にして、父を光網と曰ふ。光綱の女弟は卽ち正成の母也。正家·晩に薙愛して、四阿と號す。正行と共に四條畷に戰ひて死すと。二月六日、正家は道源と久慈西郡に戰ひ、其の子義冬を斬リて之を敗る(佐竹文書、佐竹系圖)。尋いで瓜連城に據る(藥王院文書、桐原系圖)。廿五日、 クスノキ道源·威廉を率ゐて之を攻む。正家逆戰して、賊將後藤基明を斬る、賊·敗退す(桐原系圖)。佐竹幸乙丸·族を離れ、獨り正家を援け、其の兵入野助房(七郞次郞)を遺はし入城·之を守らしむ。防戰旬餘(藥王院文書、按ずるに幸乙丸は誰の小字たるか詳かならず)。八月二十二日、佐竹義篤、又族義高を遣はして、瓜連を攻む。十二月二日、義篤·賊黨を率ゐ、瓜連を攻め、其の叔父義景を別將となす。經泰、治久·復た之を久慈東郡に逆へ、岩手河原に戰ひ、利あらずして引退く。十一日、義篤進んで瓜速を攻む。瓜連遂に陷り、正家逃れて(飯野文書)陸奥に走り、顯家に依る(櫻雲記)。義篤·那珂通展、及び其の族四十二人を撿へて、之を增井勝樂寺傍獨松峯に斬る。或は云ふ、戰敗れて自殺す(戶村本佐竹系圖、那珂家諸)」と見ゆ。14出羽の楠氏羽前國東田川郡金峯山あリ。文安中、楠氏の裔能勝入道なる者、此處に潜居すと云ふ。卽ち縣誌提要に「金峯山の北麓、高坂村は、楠氏の黨奧、潜匿の舊跡なり。地名に赤坂あり、山名に河內あり。皆本國の稱呼を移せり。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)

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