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柴田(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

和名抄、伊勢國三重郡に柴田〓を收め、之波多と註し、又陸奥國に柴田郡あり(陸前)、和名抄に之波太と註し、郡内に柴田〓を收む。其の他、三河、常陸、下野、陸奥等にも此の地名存し、越後の新發田の事は次條に在り。1 (阿倍)業田臣奥州業田郡の豪族にして、阿倍氏の族人也。神護景雲三年三月紀に「陸奥國業田郡の人、外正六位上丈部島足に、姓を阿倍柴田臣と賜ふ」と見ゆる2 (大件)柴田臣前項と同樣、奥州柴田前項と同樣、奥州柴田合戰を遂げ、晩に及びて芝田館を攻め落し訖る。愛感ぜらるべきは、工藤小次郞行光の從藤五、藤三郞兄弟、奧州の所領よリ鎌倉に參向するの處、白河関邊に於いて、御使の芝田を追討せらるべきの由を聞き、其の所より聽せ歸り、合戰の日、彼の館の後面に廻はりて、箭を射、その員を知らず、中りて死する者十餘人、賊首退散、偏に件の兩人の忠節に在るの由、之を申す」to蓋し次郞は古代以來此の地にありし大臺族と考へらる。此の役の事、餘目舊記に「伊澤四郎家景の舍弟を宮城の小四郞家業といふ。そも宮ぎと名乘る根本は、頼朝御逝去以後、賴家·鎌倉殿に成=給ふ。程なく御死去、御弟實朝將軍になり給ふ。彼の御代·彌次郞左衞門といふ朝敵いできたり。たけは八尺貳分、男力は七百人がちからなり。わづか手勢三百餘騎たりといへども、衆をばうしろにおきて、只一騎·數千萬騎が中に、はせ入、防戰すといへ共、矢かたなも立たざる間、かなふべき樣なし。鎌倉殿には平家をたいらげ、秀衡をほろぼし、四海をたなごゝろの內にしたまへども、彼の彌二郞左衞門には、しんたいきわまりたまいて、六十六箇國へ御札を立て、かの賦徒をくみ討ちしたらん輩は、くんこうけんしやう望みによるべしと、觸れ給へども、日本ひろしと申せども、御ふだに付きてのぼる俗なし。小四郞家なり·御札の面に付て、在鎌倉し、くみうちせんとて思ひ立ちて、老母の方へ暇乞に立越えたり。老母對面していはく、さても鎌倉にては平家をたいらげ、木曾をしたがひ、秀ひらをついふくし給ふといへども、かの彌二郞左衞門·御しんたいきわまり給ふを、汝がくみ討せんとは愚か也云々。鎌倉殿ぎよかん有りて、軍をはじめ給ふ。げにも彌二郞左衞門·三百餘騎を後におきて、一騎はせまわるに、面をあはする人なし。其の時、小四郞家なり·駒打ちよせて、奥州より留守家景が弟伊澤小四郞家なりとは我が事也くみ給へといふ。彌二郞左衞門をし並べてくむ。母のをしへのごとく、くみふす。刀をぬきくびを半分かきたりしかば、彌二郞左衞門·足のあぐとにて、ぐそくのをしつけを二打ちうちければ、大力にうたれ二つへ計まへに打ちいだされ、せつしゆす」と。又封內記に「船岡色の古愛は四保館と云ふ。公族業田家の曇祖四保四郎の所居なリ。今其の子孫·相繼いで之に居る。名跡志に曰はく、〓人曰ふ、船岡城·或は四保館と號す。乃ち柴田次郞の故墟也。牙城は方四十間。二郭は三十間、達七十間。三郭は方七十間。地勢峻嶮、東南に大湖あり、四に並倉湖あり、東に内湖、北には阿武隈河を湛ふ、地利の衆美を鍾むるの堅城と謂ひつべき也。〓說數條あり、信ずべからずと雖も、古來往々傳說して口碑に遺る、故に擧げて之を記さん。柴田氏·往古全盛の時、倉に一囊の栗あり、食へども竭き難し。僅に一片の帛あり、裁てども盡くるなし。庭に一甘の泉あり、汲めども潤れず。又曰ふ、城の上に一古井あり、蛟縮を出す、之を裁つ累年·斷左チ0城主性·貪婪にして之に飽くる無Lo他日·其の無盡藏を怪しみ、人をして之を縮し、驥尾して脆驅せしめ、井上に繰る。其の長さ二三百餘丈、蛟約稍々盡く、靑小蛇ありて紬の尾に附いて出づ。走リ去りて所在を失ふ。是より其の物有るなし矣。東鑑に曰ふ、羽林賴家屢々芝田次郎を召す。病と稱して至らず、此に シハタ於いて正治三年九月四日、宮城四郞をして柴田城を攻む。時に工藤行光の從者藤五、藤三なる者、東奥より鎌倉に還る。偶々之を白河關に聞き、是より往きて宮城の軍を援け、其の城疊を拔く。是に於いて城主終に亡ぶ」と見ゆ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)

尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[8]:90頁

本朝武家諸姓分脈系図(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[27]:13頁
  • 『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[212]:45頁

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