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杉原(9)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

9美作の杉原氏眞島郡藤森邑飯山城主杉原播磨守盛重云々と。又東作志に1古野郡大野保川上邑久古屋敷。久古は杉原孫兵衞とて伯州の人なり。元亀二年、毛利元就·因州宇塚越を經て亂入す。其)時杉原一番に云々」と。又美作略志に「天正七年、毛利氏の兵·本州に入る。杉原盛重·兵五千人を牽ゐ、大沼山に陣し、その三千を以つて、高田川を濟リ、湯山城に逼る。時に浮田氏の將·牧右馬助、同源之亟·城にあり。勝敗久しく決せず」など載せ、又陰德記に「毛利家の杉原盛重·南條信正と長潮川に對陣す」と10源姓播磨の椙原氏は、源氏にて、椙原賢盛の後裔なりと云心11〓和源氏足利氏族尊卑分脈、同補遣に「仁木彌太郞義繼-太郞義秀-彌太郞義政-同義重-同義高-同義春-義之杉原備前守、號蓮華寺)-義綱(備前守、實心院と號す)滿綱-元綱-元清河内守七り論寺浦郡助同元實-久惠權六更1重家-元家保: :大山口光緣-定緑式萬小甫: 12攝津の杉原氏豐島郡の名族にして、杉原利兵衞は走井村淨行寺を創設す。13河内の杉原氏第一項の族にて、當國の大族也。世々畠山家の重臣たりき。太平記卷三十五に「河内國の守護代、杉原周防入道一とある、これにして、志紀郡譽田城(後古市郡、古市町譽田)にりて、楠木正儀の軍と戰ふ。後明應の頃、畠山義豐·當城にありて、同族政長と戰へり。又河內郡水走城(同村水走)は、正平十五年、杉原周防入道·譽田城より當城に籠りしも、楠氏に攻められて南都に走る。その子孫多く、畠山衰微後は一方に割據ナ。石川郡二上寨(山田村山田)は、天文十一年、木澤左京亮、杉原石見守等、據ると云ふ。14紀伊の杉原氏海部の豪族にして、永享中、杉原氏盛·湯淺氏に代りて加太庄地頭職たり。同地八幡宮文書に見ゆと。15大和の杉原氏康正道內裡段錢引付に「參百文、杉原大和坂田殿、段錢」と又安西軍策に「大和住人杉原兵部承」見wo 16尾張の杉原氏愛知郡の豪族にして、尾張志に「烏森城(鳥森村北脇)。城主は杉原伯耆守長房、其の子左門等なり。此の左門の子四郞左衞門の世より百姓となりて、子孫歷代、此の城址に住ヘリ。銀藏といふものあり、是れ杉原名字にて、長房の正統なりといへり。此の城跡に住へる六軒の内、銀藏を除きては、源左衞門、都左衞門、初藏、久藏、角左衞門といひ、名字は佐藤、小塜、高木、瀧野、杉野といふ」と載せたり。秀吉外戚の杉原氏も此の族にて、第一項平維衡の裔、杉原光平の後なりと云ふ。七郞左衞門家次に至り、秀吉に仕ふ。其の子は伯耆守長房なり、次を見よ。17杉原侯杉原系圖に深い(鐵守府將軍貞盛より十代、伯耆守、初めて杉原と號す)-員平(從五位下、民部少輔)-恒〓(玄蕃九、六波羅の祐筆、奉行)-心光(三位房)-明平(兵庫頭、法名道福〕-政爛(兵庫頭、法名支周)-滿盛〔兵庫頭)-賢盛(七郞、伊賀守、法名宗伊、歌人)-長恒(安藝守)-孝盛(伊賀守、法名宗源) -時盛(兵庫助)-(此の間數代中絕)-家利(七郞兵衞、尾州の人也、祖父より尾州に住す)-家次(七郞左衞門尉、屋州の人也元亀元年、秀吉に仕へて家老と爲リ、播州三木城を領す。天正十年、秀吉·山崎天王山に築く、家次·奉行事の政務、京所司代となり、江州坂本城を領し、後に坂本を罷め、丹波福智山城を領す。天正十二年九月九日卒、歲五十四。法名淨庵。妹は七曲と號す。淺野又右衞門の妻、高臺院を以つて養女と爲すと。其の妹は朝日と號す杉原道松の妻にして、北政所の母也)-長房(初名彌兵次、江州淺井郡小谷に生る。少年にして父母を失ひ、淺野彈正少弼·養子と爲す」と。長房の第1長俊(長兵衞)、妹は六人、北條出羽守氏重の妻、船越三郞四郞永景の妻、松平伊賀守忠晴の妻、堀美作守親昌ウルト、淺野振津守の妻、竹中左京亮重常の妻なり。家紋燕之丸。その後缺を補ひて「安藝守長恒-伊賀守孝盛-兵庫助時盛-隆泰-家利-家次」とす。而して藩翰譜に「十郞兵衛尉家利が祖父の世より、尾張の國の住人とは成りてけり。家利·一男二女を設く。嫡男七郞左奮門尉家次は、伯書守長房が父なりけり。姉は淺野又右衞門尉長勝が妻、(一說に妹なりといふ、長勝は彈正大弱長政が父なりけり)妹は杉原入道道松が妻にて、豐臣太閤家政所の御母公なり。家大、所緣に就て秀吉の家に親しかりしかば、彼の家に仕へて、天正十一年九月九日、五十四歲にて死す(祖父物語に『木下藤吉·美濃にて七千石を賜はりけるが、俄に大名に成リ家人なきに迷惑し、伯母覺七郞左衞門とて、〓須に連尺あきなひして居けるを呼び寄せ、七百石とらせ、末々何程の大身と成たりとも、十分一とらせんと約束したりけり。後に杉原伯耆と申しけるは、この七郞左衞門の事なり』と見ゆ)。一說に家次·丹波國福知山二萬石を領し、天正十一年、近江國坂本の城に移り、京都の所司代して、同十二月九日に死す、五十七歳なりと兩說あり。其の子長房は、政所の御外從弟なりしかば、次第に身を起して、但馬の國豐岡の地を領す(三萬石、また二萬八千石ともいふ)。一說に長房十三歲にて、番磨の四代尻池といふ所を賜ひ、十六歲にて叙爵し、豐後の白杵、但馬の曹岡、播磨の三木の城等を賜はり、移りて父が家を體ぐと云ふ。伯耆守重長·父に籠ぎ、寛永七年に叙博す、(初名は吉兵衞)。正保元年十月三日に卒して子なければ、竹中左京亮重常が男は、外甥なるに因つて世嗣として、帶刀重元と申す。承應二年十月十四日、重元十七歲にて、世を早うし、世嗣なければ家絕えたり、」と。寛政系譜には「伯耆守重長-帶刀重支(一萬石、嗣なく絕家)」と。其の他、十家を載せたり。家紋萩の丸。 スキハラスキハラ-スキフスキフチ-スキマサ20ml 18中島の杉原氏尾張志に「中島郡刈安賀村、杉原伯耆守·名あり」と。19信濃の杉原氏當國の豪族にして、小縣郡烏帽子形城に據り、村上家に屬す。「杉原四郞兵衞に至リ、天正十一年、舊敵たるに依りて、眞田安房守昌幸·これを責めんとする時、厩の別當水出大藏と云ふ者、元來當郡水出村出生の者にて、道路の樣子を委敷能く知りたる故、案内せしめ、終に眞田家の爲に落城せしむ」と。又浦里村富〓邊に據るものあり。20越後の杉原氏沼垂郡杉原城また水原城(水原町)は、杉原氏の居城にして、後に一時細越將監·城代となる。杉原氏は爲景、謙信の時代に壹岐守憲家、景勝の時代には、其の子左近將監平元信あり、天正十年討死す。其の後大關阿波守親益の于彌七郞、杉原壹岐守黨家の養子となり、常陸介親憲と云ふ。勇才他に勝れて武略あり、米澤林泉寺に墓あり。大坂の軍起りし時、杉原常陸分、須田大炊助、銕孫左衞門等、鳴野の戰に高名して將軍家よリ、御〓書、井に物を賜ふと。21雜載將軍義昭家臣に杉原淡路守、又杉原十郞兵衛は味方原に戰死す、こじ武田家臣也。又伊勢神宮祠官にあり、又今川家臣、又筑後河北文書に杉原下野守·見ゆ。下りて江戶幕府儒員に杉原直養(平助)·心齋と號す。又足守木下藩家老、井伊藩重臣、小泉片桐藩重臣、淀稻葉藩番頭、河越松平藩重臣、出石仙石藩用人たり。その他、會津保科藩に存し、又佐州役人付に「〓和源氏、杉原藤大夫、」又三星を家紋とするあり。又田中侯の臣に杉原金左衞門、田中藩知行割帳に「四百石杉原金左衞門、二千八十石杉原善左衞門、千石杉原内膳」と。又黑田藩勘定奉行に椙原一茶あり。又美濃、志摩、磐城、岩代、備中、備前、又御天守番に杉原〓大夫あり。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)

本朝武家諸姓分脈系図(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[75]:11頁
  • 『本朝武家諸姓分脈系図』(写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[212]:55頁

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