杉原(2)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
2室町幕臣此の氏は、太平記、卷十四に杉原下總守、二十二に杉原與一、二十七に杉原又四郞·等あり。その後、永享以來御番帳に「三番杉原兵庫助、五番杉原左京助、杉原伯耆守、杉原掃部助、」また文安以來御番帳に「三番杉原兵庫助、四番杉原彦部門入道、在國衆杉原民部丞、五番杉原彥太郞、杉原四郎、在國衆杉原伯耆守」等、甚だ多し。又長享元年九月、常德院江州動座着到に「四番衆杉原太郞左衛尉盛平、同中務丞盛恒、同左京亮和助、同三郞左衞門尉盛重、同彥六」及び東山殿祇候人數に杉原七郞を學げ、又細川兩家記に「大貳杉原兵庫介、」永祿六年諸役人付に「御部屋衆に杉原奥七郞長盛、外樣詰衆以下に杉原兵庫助晴盛、杉原彥五郞、杉原新兵衞尉吉盛、御部屋衆に杉原上總介長盛、三番に杉原新兵衞尉吉盛、」また「眞下式部少輔晴英(杉原與三)」と云ふも見ゆ。面して見聞諸家叔に、たし」と。猶ほ木梨條を參照せよ。而して、太平記に、杉原又四郞利孝をして鞆を攻めしめし事見え、觀廳二年の尊氏書に「杉原彥太郞信平、早く備後國福田莊(沼隈郡)高洲の地頭職を領知すべき事」と。次いで康正遺内程段錢引付に「六貫五百七十九文、杉原因幡守殿、備後國信數名。十二貫三百七十五文、杉原彥四郞殿、備後國木梨庄、段錢。八貫二百八十五九、杉原千代松丸、備後國三原浦、井高洲段分(御調郡)。五貫文、杉原左京亮殿、備後圖杉原本庄段義(御調郡)。三貫文、杉原新藏人殿、備後國草原村、段錢。九貫六百文、杉原美濃守殿、備後國父木野四ヶ所分段錢(神石郡)」等見ゆ。下リて殘太平記に「天文七年七月、大内義隆の將·杉原宮内少輔忠興は神邊城主山名興氏を追落し、其の勸賞に當城を賜はる。忠興·後に故ありて、雲州の尼子家へ通じ、遂に被國へ退去す、」と。ナ條參照。次いで安四軍策に「備後國神邊城合戰。天文十七年の夏、備後國神邊の城主杉原宮内少輔忠興を退治の爲、大内義隆病よリ陶尾張守隆房を大將として、防長の軍號角巴佐々三番杉原木本3備後の杉原氏當國の大族にして、第一項の後也。福山志料に「杉原氏は隼人佐胤平が裔也。胤平もど鎌倉に仕ふ。相摸入道がとき、故ありて此に來る。其の子又太郞信平、又次郞爲平、足利氏を援けて功あり。備後木梨庄を賜はる、因りて木梨とも稱す。子孫繁昌、諸處に散居十1國志なけれは、その人やを的知しが士五千餘騎を差向けらるミ醫陽の味方を催さるゝに、毛利右馬頭元就朝臣、同備中守隆元朝臣、吉川治部少輔元春朝臣、小早川又四郞隆景朝臣、失戶安藝守、同雅樂頭、平賀太郎左衞門等を相加へ、都合八千餘騎、同年六月廿日に神邊へ推し寄す。城中よりも足輕を出し、相戰ふ。同二十三日、吉川元春朝臣、手勢六百餘騎·城際へ押寄せ、在家を放火せらる城中よりも杉原左衞門大夫·二百餘騎突いて出で、吉川勢と迫め合ふ。又忠興は一千餘騎にて、密に城の後より勢を下し、茂リたる林の陰より咄つと出で、元春朝臣の旗本へ切つてかゝる。餘りに手痛く懸け立てられて、吉川勢引色に成りしを、元春と名乗り、手づから鏈をつ取つて進み給ふ。吉川勢·又馬を立なをし、開戰す。杉原盛重手負ひ少し退くを見て、今田上野介、森脇内蔵大大夫、鏡を入れ突立て、二宮彌五郞など弓にて射、透問なく、揉み立てける間、忠興城へ逃げ入りぬ。其の時、又五百騎計り出でけるに、宍戶雅樂頭隆家·手勢七百計リにて、行合ひ相鬪ふ。宍戶が郞等江田市助と、忠興が手の者·長田左京亮、壇の上監物と云ふ者と、鍵を合ほする。其の外、宍戶家人申所少軸四郎など比類なき働きす。數刻迫め合ひけるが、互に窟して相引にぞしたりける。爰に平賀太郞左衞門·年來の遺恨有けるが、其の結根を散さんとや思ひけん、某甲一人に仰せ付けられ給ひてんやと、類に望み申すに付、向城を築き、平賀を差籠め置いて惣軍開陣あり」と。又「備後國神邊城沒落、井に目黒義死の事。備後神邊の城主杉原と向城に籠め置かれたる平賀は、天文十七年より十九年迄、三年の間、互に守り居ける事なれば、其の間追め合ひ、度々の事なりしが、或る時足輕など出し、打合けるが、杉原が勢さつと引くを、平賀追ふふりにて神邊の城中へつと入り、舊き固屋に火を付け、其の儘蒐け出でたり。杉原すわや敵ぞと追ひかくる。平賀城へ蒐け入る時、二人連れて行きしが、一人は城へは入らず、橋の下に隱れ居、臆して慄へ居けるにぞと見る所に、左はなくて、敵·追ひ掛け出づるとき、橋の下より差のぞき、大勢の足を薙ぎけるけるに依りて、危ぶみて追ふことを得ざりし也。誰といへば坂新五左衞門牢人して、其の頃は平賀を頼み居けるが、く打て天文十九年十月十三日、杉原·終に城を則は退き、雲州へこそ下りける、」と見ゆ。その他、杉原播磨守、杉原盛重嫡子彌八郞元盛、二男又次郞景盛、杉原九郎左衞門(毛利方)、杉原兵部丞、杉原鹿目助·等多し。而して藝藩通志、御調郡條に「千光寺山。後地村にあり。杉原民部元恒、同宮內廣盛が故居、」と。又「鷺尾山。木梨村にあり。一に釋迦峰ともいふ。杉原左衞門信平より數世居る、」と。又「家城。同村にあり、信平が弟、又四郞爲平が所守。大迫山、三成村にあり。撰傷城、大塔村にあり、」と0 4安藝の杉原氏藝藩通志、高宮郡條に「狩留家村杉原氏。先祖杉原忠興、備後神邊の城主、其の孫元盛·弟に殺さる。幼子松若、上深川村に來り、寓して多門と稱す。其の子庄三郞、慶長年中、家を此の地に移すなり」と0 5出雲の杉原氏康正二年造内程段錢引付に「二貫文、杉原兵庫助殿、雲州安田庄、段錢」と見え、その後、杉原氏當國に移りし事、第三項に云ヘリ。又雲州軍 話に「永祿九年云々、杉原播磨守盛重は美保關取出の付城を構ふ」など多く見ゆ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)