木内(3)
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概要
関連文献
姓氏家系大辞典
3武藏の木內氏小田原記に「天正二年DR.石濱の千葉殿に女子あリて男子なLo氏政の御下知にて北條常陸守氏繁の備前、美濃等にも此の又里見キノイミー キノウチキノウチキノウチ-キノカハ一九三三男を養子して、彼の息女に合せ、千葉の一跡を相續あり。然れども此の千葉次郞幼少なればとて與力の侍、並びに石濱の城を木内上野に預けらる。上野討死の後は、子息木内宮内小輔又配あり。彼の與力衆は板橋肥後守(板橋城主)、松戶越前守(赤塚城主)なり。以上石濱領は四千貫の所なり。然るに千葉次郞·成人の問、石濱を返し給るべしと、度々申上らる。本內が家老字月内藏助と申す者申し上ぐるには、宮内少輔も既に石濱居住の後、父は討死す。其の後、數度高名、軍忠勝げて計ふべからず。石濱の御改易ありがたき事なるべしと。類に申す間、此の事延引しける故、千葉次郞の內に須藤と云ふもの、主の所望むなしき事を無念に思ひて.石濱の惣泉寺と云ふ會下の寺の中にて行き會ひ、さしちがて死にける。此の由小田原に聞えける間、千葉二郞の所行なりとて、本領をば終に返されず」と云々。北條役帳に「木內宮內少輔、」此の邊を領せり。按ずるに北條系圖に「左衞門太夫氏繁が二男北條善九郞胤村、千葉次郞胤宗が養ひとなり、小次郞と改む。武州石濱の住人なり」と云ふ。是に據れば、大草紙、小田原記等に、胤村を氏繁の三男と記せしは誤なり(新編風土記と。又足立郡に大田窪城あり。大正年中、下總の千葉介國胤、木崎庄を領し、家臣木内右衞門をして當所を陣屋とすと。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)
系図綜覧(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第一:139頁