日色(藤原姓)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
3藤原姓肥前の豪族にして、高木氏の族人·日向の國司となり、子孫其の官名を稱號とせしものかと云ふ。高木、花木等の條を見よ。あり、平家に叛き、平治の頃、筑後守家貞に攻めら日向太郞通良れ、敗北して遂に斬らる。源平盛衰記卷二に「平治元年の比、肥前國住人日向太郞通良·野心を挾みて朝感を傾けんとする聞えありしかば、追討すべきの由、清盛朝臣に仰せ下され、勅命を蒙りて、筑後守家貞を召して申し含む。家貞·四府に下向して、通良が城に押寄せて、度々の合戰に及ぶ。城も究竟の城也、主も勇者成ければ、稼く落ざりけれ共、月を隔て、日を重ねては、官兵は雲散りけり。の如くに集りければ、威徒は霧の如くに永曆元年四月に、通良以下の黨類·三百三十五人を討ち取るの由、家貞が許より下の首七、御幸有り、交名を注して申上げたれば、〓盛朝臣·事の由を券聞す。通良、御樣敷の前に渡されて御覽ぜ同五月十五日、並に子息通秀、島羽殿に親良以らる。〓盛朝臣·御前に候せり」と。又百鍊抄に「水曆元年五月十五日、鎭四賊主通良の從類七人の首·京師に傳へ、上皇·御樣敷に於いて御見物云々」と載せ、又遊方名所略に「二條院平治元年、良等、撿非違使日向太郞通良、私かに野心を挾み、其の子通秀、野威を傾けん親 ヒウカと欲す。上·平清盛に追討すべきの旨命じ給ひ、〓盛·筑後守家貞を召し、肥前國に遺はし、賊城に籠る所の黨類三百三十五人を討應せらる」と。又鎭西要略に「今月十日、元を永曆元年と改む。尼前國住人日向太郞通良·、源氏の緣を以つて平家に從はず、遂に城郭を構ふ。〓盛·勅を奉じて追討使を下す。使節者筑後守平家貞·太宰府に下向す」など見ゆ。此の通良の據りし地は、肥前高來郡島原多比良の地かと云ひ、一に藤津郡白石の地かと云ふ。又地理志料に「源平盛衰記平治元年、肥前人日向通良·綾部城に據りて叛す。平〓盛に〓して之を討つ。南畠有邸日ふ·通良の弟幸通は、壽永三年に綾部〓を賜ふ」と。遺事に「居易曰ふ、此の年(元肝元年)、日向太郞通良·當國神埼郡坂本に下向し、後嬉野、白石を領す、嬉野、白石氏の祖也。第肥前權守幸通·賴朝の時、當綾部庄を玉はり下向す、此の地大進坊の跡也。幸通の子小濱太郞通弘、義部四郞通俊、藤木三郞通經、西郷次郞通秀等あり、達通の第小宮三郞云々」と。又三根郡に白石の地ありて、日向太郎の城路と傳ふものありと云ふ。151ヒウカヒウカ同大8社、城上郡に神坐日向神社(六、月次、新甞)、近江國犬上郡に日向神社を收む。10越後の日向氏青海神社々家に日向氏あり、青海、大和等の條を見よ。11信濃の日向氏信濃佐久郡日向邑より起る。大永中、日向大和守昌時あり、武田氏に仕ふ。其の男新助虎忠、彌四郞秀拳等あり。家紋丸に鷹羽違。又甲斐國志に「日向氏はもと信濃佐久郡より起る。大永中、日向大和守是吉、子息新助虎忠、彌四郞秀泰等あり。其の奇大和守は忠烈の士也。其の子に藤九郞、二郞三郞あり、又玄東寳宗立はもと新津氏、日向大和の妹婿也と云ふ。其の子半兵衞正之(正成)に至り德川氏に仕ふ」と家紋丸の内に鷹羽違。昌時は天文廿二年より永祿の初めまで、松本城(深志城)に據り、その後、伊那郡沼之城に在り。又大島城(大島町四)は大島氏の居城なりしが、後武田屬城となり、天正十年、勝賴·日向大和守昌時入道宗英をして守らしむ。織田氏の爲落城すと。又舊記に「壬午の後、日向玄東査同半兵衞、父子·石水寺城を守る」など見え、子孫甲斐巨摩郡、信昌佐久郡同大8綾部、賀酒、白石、嬉野、大野、福田、田結等の條參照。又彼杵郡彼杵村に日向氏あり、中尾、山ロ、川尻等の諸氏と同樣、日向より移ると傳へらる。桓武平氏鎭四要略、日向太郞に多比良と註するより、平姓かとするものあり。又多比良を地名とするものあり。平氏(タヒラ)條第二十四項、及び多比良條を見よ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)