日熊(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
1豐前の日熊氏上毛郡の豪族にして、熊谷直實の裔と傳へ、一に佐々木三郞大夫頼綱より出づとも云ふ。日熊城に據る、築上郡志に據るに、仁治元年三月、日熊小次郞直久·目熊城を築き、爾來、直方、直晴、朝直、直長、直景、頼直、直秀、直弘、直尊、直家、輝直、直植、直明、直光、直良、直忠と相續き、代々次郞、或は小次郎と稱す。天正十六年三月、直忠の子直次に至り、黒田氏に亡ぼされしが、此の時に當り、上毛郡の諸城主、皆盟して直次を援け、大に垂水村の桑野原に戰ひ、小畑長重、如法寺久明、鬼木惟宗、山田輝家、同親賣、八屋刑部、緒方帶刀、內尾兼元等、或は通れ、或は死して上毛郡·全く黑田氏の有となれりと。豐前軍紀略に天正十五年十月上旬、當國上毛郡一揆·姫隅、高田の兩城に楯籠る。長政·急に押寄せ之を攻め、家臣衣笠因幡、栗山備後、黑田三左衞門等、聊か戰功あり。同郡出內村川底城主如法寺孫四郞·千餘騎を帥ゐ、姫隅の後詰として寄せ來こ、長政·旗下勢を下知して之を討ち破り、如法寺·十人許を引具するGB,橋爪三郞·追蒐けて孫四郞を討ち取る。是に姫隅、高田の者共、人質を出して開城す云々」と。又日熊系譜に「天正十六年戊子三月二十一日、黑田長政·數萬の軍兵を率ゐ、高瀨川の邊に陣取り、直に責め廉くる勢に依り、日熊直次の域兵三百餘騎·觀音原迄打つて出で、双び襲ひ、弓を挽き矢を放ち、劔を拔き桶を築く。飛龍臥龍午盡觀音原赫、勇み振ひ戰へば、敵勢に引色見ゆれば、長政·引貝を吹き、双方へ引退く。城兵の內、片山左近、吉崎刑部、木村仙之助、岡崎隼人、其の外、忠臣の勇士十六人戰死す。城兵愁恨ありと雖、直次進みて、忠臣は二君に仕へざるの金言、弓箭高名末代の面目、何事か之に加へんや、早々從賴落城打死して、譽を後代に殘さん、各々如何と宣へば、城兵一同供奉仕ると言上す。直次·笑顔を含み、酒宴を催し軍謀巡らし、如法寺、小畑の四種、兵の加勢を乞ひ畢る云々。二十二日明六つ、小畑長重の臣奥村勘解由、二百餘を率、如法寺久明の臣田中釆ち、二百餘騎を率ゐ、城兵三百餘騎、都合味方八百餘騎、西南に打つて出づ。長政勢一千三百餘騎、双方觀音原に打つて出で、秦皇燕丹、怒を挿みて合戦す。時に田中釆女、外に退き、直次·引貝を吹味方各々引き退く。長政の勢進み來リ、終に城廓に稲籠る、山上より岩石を落し、敵勢多く死して、長政退陣す。城も片時休息し、直次·兵士を調べ見るに、一騎當千と賴み切つたる村岡大學、長澤駒之介、小川新造、井上主稅、福島虎松、其の外殘らず討死し、殘兵僅に八十餘人、本丸に楯籠る。悵き哉、悲しき哉、一同切腹して、後は火中の煙と成り畢る」と。黒田氏·城を陷れて後、後藤基次をして當城を守らしむとぞ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)