日向(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
一四〇五 カカカカカカ戛を國造に定め賜ふ」と見え、更に其の前條に、次項に述ぶる、賀我國造を載せたり(次項參照)。卽ち加賀一國につき、二國造を擧ぐるなり。此れにつきて栗田先生は「加宜は詳かならねど、山城の外に山背を記し、武邪志あるがうへに、胸刺を書る例にて、後人の杜撰に書加へしものなるべし。いかにとなれば、加賀國造は垂仁帝の裔にて、能登國造の流にあらず。また加賀の外に加宜と云ふ地名ある事なく、素都乃奈美留は高志深江國造の條に『道君同祖』とあれば、能登國造の流と別なるなど、古書に合はざるにても思ひ辨ぶべし」と曰はれ、又吉田東伍先生は「加宜は加賀に同じ、宜はゲの一聲轉を假れるのみ。此の素都乃奈美留命は、同書の『能登國造、活目帝皇子、大入來命孫彥狹島命、定賜』とあるに合はずして、『高志深江國造、道君同祖、素都乃奈美留命、定賜』とあるに合ふ。道君は姓氏錄に見え、本國石川郡に又味知〓、味知神社ありて、其の氏人も國史に散見すれば、『能登國造同祖』とあるは『深江國遣同祖』の謬なるべし。且つ道君は、北陸經始の大功ある大彥命の裔なれば、其の所以あることとす、然るに此の國造家は後亡びて、能登の羽咋國造三尾君の族孫、其の跡を承けたまへり。云々」と見ゆる二說共に謬れり。こは加賀郡司に道君の多きに注意せられざりし千慮の一失と云ふべし。今古文書、史籍により窺ふに、奈良朝時代、加賀郡司は、大領少領共に道君にして、主政主帳にも亦道君多し(道君條參照)。之に反して、三尾君の旅なるは、此の地に殆んど顯けれたろ者なし。國造の後裔は多く郡司に任ぜらるゝが原則なれば、初期の郡司の研究は國造の出自、氏姓を決定するに、最も有力なりとす。此處に於て、余は寧ろ賀我國造を疑間とし、加宜國造、卽ち道君の國造たりし事は全く疑ふの餘地なく、奈良朝に及ぶまで、此の地方の行政を預れるを斷定せんとす。此の國造の治所は後の加賀郡郡家〓の地ならんも、國造道君は、石川郡味知〓より起りしものと考へらる。此の國造の一族、後裔はミチ條を見よ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)