文永(織田氏族)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
9織田氏族前項の如く、中川重政は斯波氏の族ともあれど、一に織田氏の族とあり。卽ち織田系圖に「信定-信次(株十郞、右衞門尉、天正二年九月九日、長島に於いて討死)-某(刑部大輔、法名宗養) -重政(駿河守、後に中川八郎右衞門と輩す。信長等に屬し、軍功を積み累ね、永祿十年丁卯、兄弟三人〔津田隼人正信勝、木下雅樂助と三人〕と同時に黑母衣を免さる。同十二年己巳八月、信長·大宮兵部大輔を勢州小河内城に貴むる時、手自ら敵を擊つ。元亀度午年五月、江州安土城代に補せらる〔信長公居城の前也〕長比、苅安の兩城に働きて、淡井朝倉勢を征し、同二年八月二十日、江州新村城を乘取り、六百七十餘人を討つ。此の餘戚に依り、小川孫一郞·降人と爲リ、小川城を渡す。同三年壬申三月五日、淺井郡に發向し、長政領分·在々所々に放火し、降る者を助け、道る者を伐つ。同十一日、志賀郡木戶田中の要害に對し、向城を築き、翌年七月挑戰、終に之を退治する也)武蔵守大隅守治部神容氏gin停車定價新右情池守宝女子彌左衞門中川氏譜に、もと清和源氏にして、小笠原信濃守政長が二男中川遠江守〓政·尾張國に住す。其の子孫次郞左衞門伊治、織田刑部少輔信則が三男八郞右衞門重政を養ひ子とす」と。寬政系譜の編者は之を疑ひて「寬永系圖織田の譜を按ずるに、刑部大輔信則は慶長四年の生れなり、よりて時代合はず」と云へど、此の家の呈語と、類從本織田系圖、竝びに寬政系圖の織田氏と、三者を併せ考ふれば、此の信則と云ふは、寛政系譜が斯く云へる信則にあらずして、せたる刑部大輔某と考へらるれば、織田系圖等が重政等の父と我時代合はずとて、直ちに排斥すべきにあらず。猶ほ考ふべし。武家事記に「中川八郞右衞門尉忠政·初名織田駿河守、織田刑部大輔が子、織田の門葉たり」と見え、寛政系譜に「刑部大輔-駿河守-八郞左衞門-半左衞門忠勝(伊勢守)-半左衞門光重(半之助)-同重勝(長三郞)-淡路守成慶(伊勢守)-忠利-忠英」と。家紋鳩酸草、五七の桐。11〓和源氏多田氏流尊卑分脈に「小國藏人賴行-左兵衛尉宗賴-賴員(小中川四郞)-賴仲(小中川二郞)-親賴(右近將監)-賴藤(右將監)」とある後なりと。寬政系譜に「藏人頼行四代の孫中川次郞賴仲が十七代の後胤なり」と載せ、家紋鳩酸草、牡丹の折枝とあり。小中川、大中川條を見よ。而して「三九郞(寛政系譜に重政、代々尾張國に住して、斯波家に屬し、又織田家につかふ)-重〓(七右衞門、將監、家康に仕へ、の役に從ふ)-重長九百石、(左平太)-重龍天正十二年、長久手(七之助)-重興(彌三右衞門)」と見ゆ。12桓武平氏佐治氏流佐治系圖に「爲平(佐治左馬允と號す。尾州大野に住む。息八郞·信長公の外族たる故、信長公の旗下に屬す)-爲與(佐治八郞、後に信方と改む。尾州大野に住み、信長公の妹婿也。天正二年甲戌九月二十八日、勢州長島に於いて討死、二十二歲)-一成(佐治與九郞と號す、尾州大野に住み六萬石を領す。佐治條參照)、弟秀休(中川久右衞門、後に加州羽柴肥前守利家に勤仕、若年の時、關白秀次公に仕へ、和州田丸を領し、織武蔵守大隅守治部神容氏gin停車定價新右情池守宝女子女子彌左衞門中川氏中川八郞左衞門さ半左衛門〓八郎右衞門女子半左衞門祝日三右衞門會原右專門國家女子-女子齋藤中務後野房配室〓政の事は以下各項に多く、また津田條を見よ。その條の系圖と對照せよ。10小笠原流尾張中川氏前項氏に同じなれど、第七項流と稱す。寛政家譜、桓武平氏織田氏族·中川系圖の卷頭に「寬永系圖にいはく、織田氏より出で、八郞左衞門某がとき、中川にあらたむ。今の呈中
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)