攝津國
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概要
関連文献
姓氏家系大辞典
-ヒラチ증시より衰へしが、猶ほ綱貴時代には平田新左衞門宗正、宗信代には平田靱負正輔等、國老たり。又祐筆記に平田美濃等見え、また流球征伐の大將に平田太郞左衞門あリ。又六郞兵衞宗吉は前述の如く、宗茂(宗清、安房入道〓甫)の男にして、其の母は島津尙久(日新公の男)の同母姉、即ち尙久の甥に當るが故に、尙久の男島津忠長·之を膝下に養ひ、其の都城(島津條第廿二項參照)に別るゝや、十二歲にして二百石を賜ふ。これ都城平田家の祖にして、現神宮皇學館長平田貫一氏は此の直嵐、同氏所藏元祿七年文書に詳か也。又諏訪神社文書に「平田民部左衞門寬文)、平田清左衞門(承應)」等あり。41雜載獨解文集に平田謙令を載せ、下つて永祿記に平田和泉あり。又阿部豐後守忠秋家臣に平田彈右衙門·名あり。又德川時代、田村一ノ關藩中老、忍阿部藩中老、五島藩重臣等に見え、又一橋家士にあり。又對馬宗藩士に平田類右衞門あり、蘭山庄右衞門と共に治績多し。又加賀藩給帳に「三百五十石(丸内三星)平田良之助、百石丸內抱壹羽)平田〓作、平駄足庄」(建武四年)と見ゆ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)