持世
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
空三 嫡子なれば家を繼ぎ、四代の孫從三位兵部癇義隆の時、家人陶尾張守晴賢が爲に亡ぼされて、大内の嫡流絕えてけり。初め周防權介持盛·兄持世卒し、其の子贈三位〓弘·幼なかりし時、これに代りて國を治ること凡そ三年、持盛が孫·孫太郞任世·初め法師となつて、尾張國愛智郡星崎の庄に來り住む。其の後、男に成り遣つて、二人の男子をまうく、嫡子修理亮盛幸·累代の先祖住せし地の名に依つて、始めて山口とこそ名乘りけれ」と。又尾張志に「愛知郡笠寺の寺部の城笠寺村の寺部)。城主は山口將監盛重、及び其の三子同内藏重俊、其の子半左衛門尉重勝等なり。盛重は大内始祖周防國守長門守多々良朝臣正恒より二十二世山口孫·太郞盛幸の二子にて、はじめは巖丸といひ、後に將監と云へり、法名は傑峯院宗先天翁といふ。重俊は天文十九年庚戌四月十七日、同郡松本の城の砦に戰死す、長安院常松靑山といひ、又は道號を淨眞ともいへり。重勝は初名を熊丸といひ、清蒸、また半左衞門尉ともいへりしが、制髪して松雲と號づく、母は同族六郎四郎盛仲の女なり。かくて重野·富城を出で、後に星崎の城主ともなりしが、遂に文祿四年乙未七月二十八日に、豐臣秀吉公のために四十七歲にて、京都北野に自殺して、雲澤院松雲桂山といふ。此の外に委しき事は世系錄にあり」と又「市場城(同村市場)。城主は山口左近太夫安盛、其の子左近太夫宗可、其の子海老藝盛隆等也。安盛は孫太郞盛幸の第一子にて、將監盛重の兄なり、觀心院宗安叟といふ。宗可は本品院宗可善慶といふ。盛隆は所々に戰功多かりしかども、終に美濃國堂洞に戰死して、法名道林、道號を少圭といふ。此の村長太右衞門は道林の子孫なり。此の外この近邑に子孫多し此の市場のうちに道林の碑石あり」と又「新屋敷四城(新屋敷村四の切)城主は山口新太郞なりと村民いへり」と 0其の他成田條參照。又櫻村城はさくらの中村の城とも云ふ、櫻村の中村にありて、尾張志に「中村城也城主は山口太郞左衞門尉〓房、其の子左馬助教繼、其の子九郞次郞〓吉也。〓房は大内始祖周防國守長門守多々良朝臣正恒二十二世山口孫次郎教仲の二子にて,淨本院宗賢固山といへリ教堂に織田家に叛いて今川義元に屬せしかば、その子九郞次郞〓吉と共にころされき。府志に『櫻村城は櫻村に在り、其の地、大地掛と呼ぶ。土人曰ふ、中村氏·之に居ると。その名を詳にせず。古址に古楠樹一株あり、傳へ日ふ、水祿中、山口左馬助·之に居る』といへる、二城の事を一處にまがへたるにて、甚だ誤れり。先この櫻村には古城址三所ありて、次に辨ぜ『0又此の中村といふ地名を名字ごのとく痛人のいひ傳へたる事は、享和三年六月に書ける此所の村の圖にも、中村主助城と記したれば、府志撰述の頃より、しか意得たるべけれど、其は議也信長記一卷に『亦中村、鳴海の兩城にて、山口左馬助父子を入れ置かれたりけるが、恨をふくむ子細ありて、謀叛を企て、酸河勢を引入る云々』惣見記二ノ卷に『鳴海の城には子息山口九郞次郞をこめ置き、左馬助は中村の在所を拵え權籠リ云々』、多々良世系錄、山口〓房が條下に『太郎左衞門尉·尾州中村の城主』などあるも、皆地名なるべしと明かなるものをや。されど今は城址あたりの田島の字のみに存りて、民家なければ、名字の樣に心得あやまれる也又この外に當郡の内に中村といふ地あり、そば和名抄に見えたる舊地なれど、上件三書にある中村とは別地なり、おもひ混ふべからず」と知多郡卷に「大高城(大高村辰巳の方)。今志水家の屋敷うちとなる。織田家の屬城なりしが、永祿のはじめ山口左馬助·織田家を叛き、當城、及び沓掛の城を掠めて、今川義元に屬せしむ。義元悅び、大高をば東參河の鵜殿長助に守らせ、沓掛をば瀨名、三田、朝比奈等に守らしめければ、信長公·鷲津、丸根の二所に碧を構へ、兵卒を入れ置き糧を運ぶ道をさへぎり絕ちける」と。その他は第二十九項を見よ。28尾張當國に山口郡、山口神社·古くよりあり。又第五項、及び前二項參照。但し前項氏が周防大內氏の族と云ふは信じ難し、或は古代山口氏の齋か。その他、天文二十二年四月、赤塚合戰のときに山口九郞次郞、水蘇の頃、山口海老之亟、等見え、又多々良世系錄、山口左馬助〓廳が妹の女子とある條下に「尾州松本城主愛智の妻」と書けり。かゝれば愛智とは、近緣者たるによりて、左馬助も戶部と名のり、又山口と云ふと又或る說に山口左馬駿河國今川家にては戶部新左衞門といふ」to詳細は愛智、戶部等の條を見よ。又山口半左衞門重勝入道祥雲あり、其の女·豐臣秀次の寵を受く。又春日井郡如意村の士山口惣左衞門は福島正則に仕ふ。又掘尾氏家臣に山口氏見ゆ。29山口侯藩翰譜に「盛幸が孫平兵衞尉盛政、これ則ち修理亮重政が父なり、(盛政また半左衞門尉と云ふ)初め織田殿に仕へて、業田修理亮勝家が手に屬せらる。柴田滅びて後、我妻の第北畠殿の家老岡田長門守が許に來つて、星崎の城に在り。斯くて岡田·秀吉に心を通じ叛き參らする由聞えしかば、天正十二年三月三日、信雄〓の爲に誅せらる。長門守が舍第伊勢守此の時は勝五郞)·星崎の城に立籠る盛政·終に城を去つて、北畠殿の御方に參る、(太閤記、井に家忠日記等合せ按ふべし)。盛政が嫡男修理亮重政·初めは長二郞と申して、是も織田殿に仕へ、佐久間信盛が手に屬す。扨も岡田既に誅せられぬと聞いて、秀吉大に怒り軍勢を體し、伊勢國に發向す佐久間駐河守正勝·北畠の如方して、長二郞重政等を宗徒の侍大將とし、都合其の勢五千餘、同き三月九日嶺の古城に要害を搆へ、龜山の城を攻めんとす。同十日秀吉の軍勢·嶺の城に押寄す。正勝、重政·打て出づ。正勝·又尾州蟹江の城に移り、重政·大野の城に籠る。かゝる所に、正勝·北畠殿の仰によつて、便宜の地を擇みて要害かまへんとて、前田奥十郞を留めて、城を出づ。前田·忽に心變りし、瀧川左近將監一益、九鬼右馬尤喜隆と謀を合せて、山口が城を攻む。天正十六年、北畠殿·改めて伊勢國茂福城を重政に與へ、一萬石を領す後德川殿に召されて、上總國にて五千石の地を賜ひ、慶長六年叙爵、但馬守に任じ、後に修理亮、常陸國牛久の地たまひ(一萬石)、又大番の頭となつて、御奏者の事をかば、同十四年伏見の城を守つて、憲法をみたさざりしかば、十六年十二月十五日、その賞を行はる、(五千石加へ玉ふ)。十八年正月八日、忽に罪かうむる事あつて、所領盡く收公せられ、武蔵國入間郡に螢居す。此の後、重政召返され、寛永五年、重政が三男長二郞弘隆、四
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)