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手染(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

條を見よ。多太タダ和名抄、出雲國秋鹿郡に多太〓を擧ぐ、風土記にも見ゆ。また高山寺本、周防國玖珂郡に多太〓を收む。その他、大和若狭等に此の地名存し、また攝津、加賀に多太神社あり。此の氏の事次項を見よ。多田タダ攝津、大和に多田庄、その他、下總、下野、陸前、若狹、佐渡、周防、伊豫等に此の地名存す。なほ前項參照1〓和源氏攝津國河邊郡の多田より起る0この地に延喜式内多太神社あり、平間明神と稱す。また多田院あり、源家發祥の實刹にして、帝王編年記に·「天祿元年、源滿仲·多田院を建つ、云々。願主攝津守賴光」と。攝陽群談に「多田大權現社は多田院村にあり。祭神五座、源滿仲公(廿四歲、御自渡邊黨の手編及び次タゲ條を見よ。タスキ-タスキノタスク-タントタソネータタ百合 作の神影、連錢葦毛馬上、御鐘緋感、御太刀鮫賴金鍔、左右に弓箭を携ふ)、同賴光公、同賴信公。同賴義公、同義家公也。元祿年間、正一位多田權現と贈り給ふ也。人皇六十五代華山院·神器を捨て玉ひ、幼主の外祖右大臣兼家卿執政あり。讓位の後、兼家卿·痢に依つて、嫡子内大臣道隆卿に讓り、出家して入道と號す。執政の人·出家するの始なり。滿仲公剃髮し玉ひて、滿慶と號す。時人·多田新發意と申す。又六孫王繹基親王社は、洛陽四八條大通寺院內にあり。俗呼んで六宮と稱す。所祭〓和天皇の第六御子、〓和源氏の始祖たり。多田神寳には貞純親王御眞筆、滿仲公病所持の弓箭、住吉靈夢記(御自筆也)、御太刀(伯耆安綱作、鬼切丸と號す、賴光公·頼信公·頼義公·義家公の御指旗、三條小銀冶、金剛兵衞等作の太刀、其の外、記文、舊記等の寶物、枚擧に遑あらず、因つて之を略す。歷世御朱印地也」、とまた伽藍開基記に「鷹尾山多田院(本朝六十四代圓融帝天祿元年創、元祿二年に至る七百十九年矣)は攝津守源滿仲公の塔院也。天祿元年に創め、源賢曾都をして之を主らしむ。僧都は滿仲公の第三子、滿仲は乃ち〓和天皇の玄孫也(〓和天皇、貞純親王、六孫王經基、滿仲)。延喜十二年壬申四月十日生、歲二十四の時、始めて源姓を賜ふ。是により源家の祖なり矣。華山上皇寛和二年に當山に幸し、敕して滿仲に剃髮せしむ。法諱覺信、長德三年八月廿七日染疾、侍臣を召して曰く、吾が逝後、全身を以つて當院に廟せよ。吾當に弓箭の家を擁護せん。亦廟窮鳴動して國家の安危を知らしめんと。言己み、安祥にて逝く、壽八十六歳。遺命を奉じて當山に廟す。其の後、忍性菩薩·之を中興す。第百四代後土御門帝、文明四年八月十七日、菅原朝臣在數を使して滿仲に從二位を贈り賜ふ。是より靈瑞·益々新たなり矣。寬文年間に至り、大將軍·有司に命じて再興す。堂社佛閣·壯嚴具足、本殿に滿仲公の影を安ず云々」と多田莊は多田神社文書に多く見ゆ。最も舊きは「多田莊內、鷹尾の畑田畠等を、多田院、總社、六所〓現の御燈油、井に御壇の供料と爲す所、度々の寄進狀等に明鏡也。寛弘三年十二月八日、波豆河〓公文源量滿·判」と。是れ多田院創立の際のものにやと云ふ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

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