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戶帳(8)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

8伊勢の土肥氏一志郡の豪族にして、土肥長光は小森城(小森邑里上)仁藤大.リ9大和の土肥氏翁草に「五千町、和州〇円.土肥彌太郞遠平」とあれど微護なしし10近江の土肥氏室町幕臣にして、永享以來御番帳に「二番·土肥三郞、」文安年中御番帳に「二番·土肥三郞右衞門尉、小早河中務少輔」、また「外樣衆·土肥次郞」見ゆ。次に長享江州動座着到に「外樣衆(江州)土肥刑部少輔、二番衆·(江州)土肥民部少輔」等を載せたり。11越中の土肥氏新川郡の豪族にして、天正の頃まで代々殆んど一郡を領す。三州志に「新川郡内、弓の庄。土肥美作守政繁領。土肥氏數代·こゝに居る。天正中に至り、政繁·相嗣いでこゝに居る」と。天正十年、信長·令して勝家等をして、新川郡の魚津城を圍み攻めしむるに、上杉景勝·防戰成り難く、魚津、及び松倉の兩城陷落し、其の餘、上杉方越中にある諸將は離心したれども、此の時、弓庄の城主土肥政繁のみ、景勝に猶ほ從ひ、城を守りて降らず。依りて成政、同年八月、同十一年四月、政繁が弓庄を攻むるに、强く絮ぎて落ちず。又十一年二月、成政·兵を新庄城に置きて守るを、土肥政繁·夜之を襲ふ。此の時、土肥の將栃屋半左衞門·成政の將加藤大蔵を討つと云ふ。又三州志、婦負郡安田城(長澤郷安田村領)條に「天正十一年二月八日、土肥政繁·弓庄を出で安城外に放火し、太田新城を攻め取ること、土肥家記に見ゆ」と。その他、次項を見よ。その後、秀吉·業田勝家を越前北の庄に亡ぼし、加州へ進發す。成政、景勝共に秀吉に和從するに至リしかば、政繁·城を成政に引渡し、越後の景勝方へ退く。かくして守山、阿尾の外、越中一圓·成政の手に落ちぬ。この越中土肥氏の出自、略歷は、三州志、新川郡弓庄城(弓庄内舘村領)條に「土肥氏數代居せり。此の土肥は、賴朝公の臣土肥次郞買平の後胤、天正の初め、美作守までは新川一郡大半を領して、弓庄に居城す。美作守政繁(初號平四郞)の時、上杉景勝に隨心なり。天正十年六月二日、魚津陷城の後は、最勝方の越中諸城主皆離心すれども、政繁の弓庄一城のみ堅く守りて降らず。仍りて同年八月二十日、及び十一年四月、佐々成政·此の城を攻む。十一年、成政より附岩を四所に築きて、山上に陳ず。此の時、城中よりも、日々五七度出擊すれども、越後の援兵來らざるを以つて城によりて、城士二百·節義を踏で、周く持すること、百餘日。成政却つて城の四面に、鹿垣を造り、久しく園んで城兵を屈せしむ。然るに秀吉公·柴田勝家を越前に退治し、加州まで進軍あれば、成政怯れて女を質として降り、本領安堵なり。景勝も秀吉公に和すれば、佐々·土肥の爭鬪も無根の事となり、政繁は城を成政に遞して越後へ退けり」と。又「堀江城(加積邪堀江川頭)は邑傳、土肥左衛門尉以來數世居たり。天正の初め、謙信·彌太郞を攻め取ると云ふ。又土肥源十郞·居城とも云ふ」と。又「稻村城(加積〓稻村領)は邑傳ふ、土肥源七郞居たりと。按ずるに、稻村次郞左衞門は、初め此の堡主なるに依りて、稻村と稱せる成るべし」と。又縮柿澤(加積〓)は邑傳に土肥孫十郞居たり」と。又稲荷城(奥田庄稻〓)は、相傳ふ、天正中、謙信·一夜にして築くと云ひ、說に土肥孫七郞居すと曰ふも、年月詳かならず。又茗荷谷山(弓庄著荷谷村)は、土肥美作守の奥城と傳ふ。又江田城()庄郷田村)は、土肥美作守の持城にて、家老桂田善左衞門·之を守ると傳へ、說に土肥孫十郞居すと云ふ。土肥家記を按ずるに「天正十一年、成政·弓庄攻城の時の陣城跡」也。前田領となりては、靑山佐渡·歸負郡の城生城より來りて、居たりと云ふ。又千石山城(加積〓千石村)は、堀江陷城〇四、土肥孫太郞·當城の稻村次郞左衞門に寄りて、三年匿れ、其の後飛州へ去ると云ふ。又天正中、土肥政繁·椎名小四郞と相爭ひ、水橋川にて土肥の將有澤 釆女·敵を槍つけ、河中に首を獲ると傳へらる。その他、有金城には土肥美作守の將宮崎氏あり。12能登の土肥氏羽咋郡末森城(押水北庄吉田村領)は、三州志に「此の障壁の古は考ふべからず。天文十九年五月、遊佐美作續光·加州松根の洲崎兵庫を拘引し、能登へ襲入の時、末森城主土肥但馬·川尻へ出張して、前途を遮ることあり。此の時、但馬四萬石を領すとあり。是れ末森城主の名·見はるゝ始め也。次いで天正八年、柴田勝家·加州賊を攻擊の時、佐久間盛政·加州車の山より竹橋へ出で、夫より末森を攻む。堡主本多三彌、西擲新太郎等·防ぐ能はず、走つて加州鳥越の弘願寺に入るを、盛政·尾擊せしこと本記に出せり。一書に、今年、末森の堡主土肥但馬·我が國祖に隷すとあり。十一年、但馬·柳ヶ瀬に於いて戰死に依りて、國祖·但馬の弟(一に甥)伊をを城せしめ、要害の修補ありて、本丸に奥村助右衞門二丸に千秋主殿助、瀧澤金右衞門、三丸に土肥伊豫をおき玉ふ。十二年九月、佐々成政·此の城を圍めども、奧村等堅く守りて路らず。十二月、國祖の急援あり、越兵圍みを解きて去リ、城兵萬死を脫す」と見ゆ。末森記に詳か也。13加賀の土肥氏北越軍談に「天正四年十月二日、謙信·津幡を發し、河北郡高松に至り、土肥但馬、同伊豫を降す」とあリ。末森間答に「十二年、國祖(前田利家)·末森後援の時、神保氏春·之を拒まんと、內高松へ出張して待つ」と云ふ。その後、加賀藩給帳に「六百石(紋角切角內木瓜)土肥吉之亟、五百四十石〓角內三巴)土肥武兵衞」を載せたり。14越前の土肥氏朝倉家の將に土肥左馬あり、藤嶋城に據る。15安藝の土肥氏常國豐田、賀茂兩郡の大族にして、小早川氏は此の流なり。藝藩通志、豐田郡條に「古高山。本〓、眞良、船木、三村の界にあり。一に雄高山、又道谷城と稱す。文治三年、土肥實平·始めて此に築き、其の後、世々相續といふ。或は第五世雅平にて、新城に移る、故に、五代山と稱すといふ。この墟·甚だ廣く、今に本丸、南丸、北丸、扇丸などとよぶ所あり。其の他、遺址の求べきもの多し。山内に、城主所祭といふ若宮の小祠あり」と。次に「新高山。古高の四にあり。一に長屋城とよぶ。是れも土肥氏の所築にして隆景まで、相續といふ。丸高山二城は、主の名を傅ふること、諸說ありて、詳ならず。一に『雅平まで、古高に據りしが、中ごろ此の城を築き移リ居る』と0また『古高山の要害のために、此の城を築き、隆景よりこゝに移る』といひ、又『隆景、始めて築く』といふ說もあり。今、地勢に因りて考ふるに、二墟の間、川を隔てたるのみにて、相去ること遠からざれば、彼をすてゝ、此に移るべからず。必ずや古高の屬堡なるべし、」と。又三太刀山は「本堀村の〓中にあり。土肥遠平·父實平に從ひ、當國に來るのはじめ、別にこゝに據ると云ふ。遠平·此の山に三の太刀降ると、夢見しによりて、名づくといふ、」と。又「古堡·眞良村にあり、土人前土井山とよぶ」と見ゆ。又「鶴山は萩路村にあり。土肥遠平が所居後に實平の封を襲ぎ、古高山に移るといふ。三太刀山より、此に移リ居りしにや.所傳なし。靑木城。宮迫山。並に須波村にあり」と又加茂郡本城山は竹原東野村にあり。相相傳ふ「建久年中、後藤實基の據りし地なり」と。或は「土肥實平の所據」と云ふ。おもふに、土肥は、小早川氏の祖なれば、後說さもあるべきか。又木村山は新庄村にあり。小早川政景·始めて居守す。其の後、子孫相續して、十三世隆景に至り、沼田高山城に移りてよリ、此の城廢すと。一說には、後藤氏、本城山より、此に從るとも云ふ。しかれば、政景は、其の故城に據りしや、詳ならず。又松尾城は三津村にあり。小早川家久行友光叔の守る所也。又二山城は國近森近村にありて、嘉應年間、土肥大炊頭廣親の所居といふ。又土肥廣親宅址は國近森近村、城山の麓、松崎浦にあり。故城主、土肥氏の別館といふ。此の地、泉石甚だ麗し。偃松ありて、土肥、常に愛玩せしによりて、地名を松崎といふとなり」と。又小多田村にも古蟲ありて、土肥能登の所居と傳へらる。而して宗近柳園村の土肥氏は、先祖土肥能登·嘉應年間、隣村二山城主たり。第五世式部入道覺壽、當村に移り、子孫農戶となる。慶長年間、總左衞門里職たりと。又安四軍策に土肥內議尤等見ゆ。その他は小早河條を見よ。16長門の土肥氏東盤、文治五年二月丗日條に「長門國阿武郡は、沒官領内爲るの間、勸賞となして土肥彌太耶遠平に賜ふと雖も、御造作柚取の爲、地頭職を去り進むべきの由、勅定あるに依り、退出すべきの由、仰せらるゝの處、遠平の代官、今に居住の由、遠聞に及ぶにより、重ねて御書を遣はさる。下ナ長門國阿武郡道地頭遠平代官云々」と。17阿波の土肥氏河田城主に土肥兵部大輔あり。後藤捷一氏云ふ「戰國の世、川田村井上城に土肥氏あり。○秀行·讚岐國寒川郡神崎城主。○綱眞·始め與七と稱す。天文年中、父秀行と共に川田に移る。○房實·網眞の長子。○廉信·房實〇中、始め久左衞門、後出羽守と稱す。川田の内·友松にて三百貫、讚岐三木郡にて三千貫を領せり。其の子に伊賀守、伊賀守の子には、丹後守、備後守の二人あり。○秀實·房實嫡子、新右衞門と稱す。天正七年、脇城外の戰に於いて、三好氏に從ひ討死す。○庄五郞·秀實の弟、秀吉に仕ふ。後姓を鹿兒島と改む(川田村阿波志材料)」と。又今川田村址に「土肥昌秀·及び庸吉」の墓ありと。18讃岐の土肥氏土肥實平の裔と云ひ、寒川郡に在り。前項及び次項を見よ。又丸亀藩士に土肥氏あり、幕末明治に土肥實光、第實忠、共に名あり。19伊豫の土肥氏南朝の忠臣にして、太平記卷二十二、義助豫州下向條に「四條大納言隆責子息少將有賣は、此の國の國司にして、去々年より在國せらる。土居、得能、土肥、河田、武市、日吉の者共、多年の宮方にして、讃岐の敵を支へ、西は土佐の畑を境ふて居たりける」と0次に義助朝臣病死條に「細河刑部大輔賴春·此の事を聞いて、時をば且らくも失ふ可からず、是れ司馬仲達が弊に乘りて、蜀を亡ぼせし謀ごとなりとて、伊豫、讚岐、阿波、淡路の勢·七千餘騎を率して、先づ伊豫の境なる河江の城へ押し寄せて、土肥三郞左衞門を責めらる。義助に順ひ付きたりし、多年の恩願の兵共、土居、得能、合田、二〇、日吉、多田、三木、羽床、三元七、武市の者共、金谷修理大夫經氏を大將にて、兵船五百餘艘にて、土肥が後攻の爲に海上に推浮ぶ。是を聞きて、備後の緬尾の道に船汰して、土肥が城へ寄らんとしける備後、安藝、周防、 トヒトヒトヒイシ-トヒシキ三九九四長門の勢·大船千餘艘にて推出す。兩陣の兵船共、渡中に親を突いて、舷を扣いて、時を作る。鹽に隨ひ、風に隨ひて、推合ひ〓〓相戰ひける、」と載せたり。その後、「十餘日を經ける處に、伊豫の土肥が城·責め落さる。細川刑部大輔頼春は、大館左馬助氏明の籠りたる·世田の城へ懸ると聞えければ、土居、得能以下の者共、同じく死なば、我が國にてこそ尸を曝さめとて、大可島を打棄て、伊豫國へ引返す」とあり。此の土肥氏は土居に作るもの多し。愛媛面影に「佛殿城は土居三郞左衞門義昌の城跡なり」と0また南海治亂記に「土居三郞左衞門が籠りたる河江城」など見ゆ、土居條を見よ。20豐後の土肥氏圖田帳に速見郡「朝見〓八十町、宇佐宮領、地頭職土肥一王丸」と見ゆ。21肥前の土肥氏「平姓土肥氏。建保年中、惟平·和田と同謀、是を以つて誅に伏す。その後、又太郞、その子實之·肥前國小城郡主、千葉氏に仕ふ」と。子孫大村藩にあり、士系錄に見ゆ。太平記、九州の官軍中に土肥氏を數ふ、此の流か、次の流か。22日向の土肥氏諸縣郡山之口〓の豪族にして、地理纂考、山之口城條に「一名亀鶴城。土人相傳へて、惡七兵衞平最〓。是を築くと云ふ。建武以來,土肥平三郞實重の居城にて、其の子孫世襲す。實重は、土肥次郞買平三代の孫にて、建武三年十二月、畠山次部大輔に從ひ、日向國三優院に來りて、福王寺に居住し、後に福王子を氏とすといふ。明應四年、伊東尹祐·是を奪ひ、其の後、島津氏に屬して、北〓忠相·領主たり」と見ゆ。23幕臣土肥氏寬政系譜、第一項の流二家を載せたり。家〓三頭左巴。「傳右衞門元成(源四郞)-德次郞有鄙(求馬)-新助惟直」と0元成は幕府の儒官にして、新井白石の弟子、學深く、又其の筆·行草とも、白石に似て當時に於いても、識別し離かりしと云ふ。又一流は「四郞右衞門兼正-勘次郞正久」と。24雜載其の他、丹後竹野郡豪族(坪倉條參照)、又下總千葉家臣に土肥備中、土肥彥大夫、土肥內匠助等多し。又田中藩家臣知行割帳に「百五十石土肥三右衞門」を載、又備前國の學者に土屍典膳經平あり。備前輩記を著す。又秋田佐竹藩士·土肥藤右衞門實廣は秋窓と號し、俳諧に長ず。又因幡の備者に土肥周太郞貫雅·鹿鳴と號す。又越後糸魚川の儒者土肥左仲政は、獸翁と號す。又同國新潟の人、牧野藩士土肥孫兵衛豐隆は二三と號す。茶道に名あり。又鯖江藩に土肥新平あり又紋譜帳に土肥次郞實平の紋を源氏車、左巴とす。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

系図・系譜

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