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成田(5)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

5成田親泰(下總入道宗藩)の世に及び、當時の亂に乘じて近隣を打靡け、埼玉郡忍の城を構へて移り住む。その子下總守長秦に至りて、手に屬する兵一千騎、上杉が東國を管領せし世には、東國の一の大名たり。北條氏·起るに隨ひて、上杉家亡びしも、長秦·故管領が跡を慕ひて、上杉彈正大弱輝虎入道諏信に心合せて、北條を伐たんとせしに、永祿三年春、謙信を恨むることありて北條に奥みす。兵亂記に「忍の城主成田中務長康·(鶏岡八幡宮)總門に有けるが、管領へ禮の作法·少しく無禮なりとて、景虎忿リ、扇にて長廉のひたいを打ち、鳥帽子を打落す。長康·主從の儀なれば、力及ばず、扇谷の宿に歸り、郞等どもを呼び、申けるは、吾代々上杉家の舊臣なれば、此の人は先づ主なれば、指たる恩もなきに、最前に參りぬ。然るに諸人の見る處にて、いやしくも五百餘騎の大將を扇にて打ち玉物かな此の仁は仁義をも知らず、片皮やぶりの豬のしゝなりと惡口して、手勢五百餘騎を引率して、即時本國へ歸り玉ふ」と見ゆる之れ也。同書、また「小田勘三郞·是は成田長康が二男なりしかば、成田下總守が方へ勢を遣はす」など多く見え、又其の居城につきては新編風土記に『忍城。郡の四の方にあり、平城にして東を首とす。本丸、二九、三丸、及び內外の、曲輪、櫓臺、十二の城門、備はれり。本城外曲輪とも、池沼或は深田をもて固めとなし、最も要害よき地にて、関東七名城の一なり。外曲輪の門は、長野口、北谷口、皿尾口、持田口、大宮口、下忍口、佐問口、凡そ七、其の外は總て田畠にて、城下町は曲輪の内にあり。又東南佐間口の邊より、東北北谷口へかけては、忍川延亘して、自づから堀構となれり。曲輪の周囘は凡そ二里半、廣狹は推して知るべし。東鑑に、忍三郞、忍五郞、忍小太郞、忍入道など見えたれば、是等の人、はや其の地の宜しきを見て、こゝに住せしは論なし。されど此の頃城壘ありしとは思はれず。小田原記、關東古戰錄を合せ考るに「成田下總守覗泰入道宗蓮·見玉武藏大豫重行を欺き殺して、彼が所領を併せ、記城を築く」と云ふ。重行を或は忍大亟ともあり、成田系譜に據れば、成田が忍の城主となりしは、文明年中の事なりと見ゆ。又宗詆法師が東路の苞に「武州成田下總守顯泰の亭にして、あし鴨の汀は、かりの常世かな(宗祗)。水〓なり、館のめぐリ四方沼、水幾重へともなく、蘆の霜枯三十四町四方へかけて、水鳥膓多く見えわたるさま」と。又千句の興行などもあリ。宗祇が爰に來し年月は知れざれど、文明の頃なるべしと云ふ。此の記に云へる顯泰は、親奉が父なり、されど調書のさま、忍城の地形に能くかなへば、此の頃、巳に成田氏·爰に移りしにや、姑く異說に備ふ。又一說に「水正年中、成田·此の地へ移りしと云ふは誤りなるべし。されば是より前、既に城壘ありて、成田は修理せしなるべし。親泰卒し、其の子下總守長秦、孫下總守氏長まで、三代當城に住す』と0その後、長泰は上杉氏と爭ひ、子息氏長と共に、盃尾城に押し寄せ、太田美濃守資正と戰ひ、晩年又その子氏長(下總守) ナリタナリタナリタほからと爭ひしが、終に髪を剃り、蘆伯入道と名のり、氏長に家を讓る。後氏長·北條の催促に隨ひ、駿河の國に向へり。その他、永祿六年諸役人附に「成田下總守長拳(武藏)」と載せ、又高麗文書に「成田彥七郞殿」見ゆ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

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