戎人八千
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
夫人 オチオチオチえた人鐵人を以つて將となし襲來す。終に播磨國明石浦に著、益躬水矢を以つて鐵人の足の裏を射る。士卒に出江の橋立と云武者有り、鐵人の首を取て天皇に奉る。八千人の戎、或は之を誅し、或は之を虜にす。足を切り西海の濱浦に棄置く、適ま存する者釣を垂る。末孫これ多し。宿海と號す。上古より當家彼奴原を召仕ふ。」と。越智系圖もほゞ同樣にして、孝靈天皇の御子を伊豫王子とし、「第三の宮也」と註し、「彦挾島尊と號す。此の時四南蜂起せしむるにより、勅して西南藩屏將軍の號を賜ふ。降りて此の國に下り、宮を伊豫郡におく、其の處を神崎庄と云ふ。后は海童の女也」と見ゆ。次に伊豫王子に大宅姓、三宅姓、小千御子の三子を載せ、大宅姓には「伊豆三島是れ也、和氣姫三子を產み、恠異の思をなし養育せず。三子海童に養はる、母潜かに三子を小舟に乘せ、海上に放つ。母彼の渚に止る、其の處を母居島と曰ふ。後改めて興居島と書く也。第一の御子八歲にして駿河國清見崎に着き大宅に住す。故に大宅を以て氏となす也。彼の處に成長、現三島大明神、從一位諸山積大明神と曰ふ也。子孫繁昌、菴立ち並ぶ、故に其の所を菴原と曰ふ也、」との譜を載せ、三宅姓には「第二御子、吉備之小島に着く、備前兒島是れ也。宅三、住居する所あり、故に三宅を以つて姓と爲す也、」との譜あり、又小千御子には「伊豫和氣島是れ也、第三御子、當國和氣郡三津浦に著き、成長あり、二名の島主となる也長大にして神靈あり、七歲にして天子の勅を蒙り、帝都に近く、難波堀江より本國小千郡大濱に著く。館を造り、二名の島主となり、天帝に禮忠あり。庶民に仁孝を施す矣。王子の末、故に小千を以て姓となす也、」とあり。天狹頁、天狹介、粟鹿、皆豫章記に同じく、三並の譜に「新羅退。治の大將となリ、十人渡らる、其の內の三番目也。伊豫王子下國の例に任せ、幕紋一鄰也。異國に於いて船卽ち混亂をなし、他船小折敷角遠挾立、其紋海水に移り、三文字に見ゆ。此れより折數內三文字紋を用ふる也、」と見え、熊武、伊但馬、喜多守、高繩、高箕、勝海、久米丸、百里、百男皆譜なく、益躬には、「鴨部大神と號す。賣藏寺と曰ふ。府中の樹下に居る。弩藝の達者、武略の名人也。推古天皇の時、異國戎人八千人、鐵人を以つて大將となし、來攻め九州を伏し、播州明石浦に著く。蟹坂に於いて永矢を以つて鐵人を抛ち、自跌撤頂上、自馬上落、士卒出江橋立なる武者有り、其頸を取り、天廷に奉り、殘奴原は或は之を誅し、或は之を處にす。足を截ち、筋を斷つ、西海の濱の浦々に棄置く、適ま存する者、鈎を垂れ日を送る。歸國の行なく、茫然たり矣、其の孫多々也、之を宿海と號す。當家召仕ふ奴原也。此の戰功により伊豫國司に任ぜられ、又播州大藏谷四立に三島大明神社あリ、矢を籠め置き給ふ也。矢の名を掃鬼と曰ふ、今に之あり」と見ゆ。豫章記よりは少し精し。猶ほ豫章記には神武-綏靖-安寧-競德-孝照-孝安-孝靈-孝元伊豫王子豫州伊藤部神崎正に送り、:宮と興す。父今師王子と麗す3 1從一位諸山戰大明神鬪之祖兩家別紙有之第二王子元之元兩家別系有之-第三越智王子-天挾貴天天介-粟鹿三並-熊武-伊但馬-喜多守-高繩高其鹽香)-久米丸-百里-百男-益躬(40元)せ、長子玉興の譜には「散位伊與大夫、又稱伊與大領、文武天皇御宇、大化八(三歟)年、役行者、遭讒流時、行者無咎由、玉興依有陳奏、被行同罪、出王城、到攝州唐崎者、無船借人、爰有越船二艘、一人不借、一人借申間、乘此船、渡伊藤國、其時於備中沖、以弓筈、攬海潮、〓水湧出、飮之〓
(太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)2頁)