コンテンツにスキップ

忠英

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

云ふ。に大村黨と傳ふ。又幕臣となり、同心たリ。又寬政系譜に「雅樂助勝重(信玄勝賴に仕ふ)-彌五兵衞勝定」と云ふもあ第五項參中川勘リ。此の家は後に絕ゆ又中川毅(子訥)は學博く、歐典館學頭たり。16武藏の中川氏新編風土記、「橫見郡御所陣屋(御所村)は當郡の御代官中川八郞左衞門が居りし所なり。八郞左衞門は天和の頃、家斷えたり」と又比企郡「玉川陣屋(玉川郷)は村の乾にあり、文祿の頃建てし御代官の陣屋蹟なり。其のころは中川某居れりと云ふ。元祿年中廢す」と載せ、又多摩郡の名族に存す。17下總の中川氏千葉家臣に、中川玄蕃九、中川市正等あり、千葉條參照。18常陸の中川氏那珂郡の中川邑より起るとぞ。子孫秋田藩に存す。19〓和源氏小國氏族越後の豪族なり。大中川、小中川條を見よ。幕臣に此の流あリ。「小中川四郎賴員(藏人賴行三代孫)の後」と云ふ。家紋六葉瓜の內唐花、抱柏。又高田の武具鑄工に中川奧十郞紹益矢正)あり。又後世、柏崎の人中川長次郞耕山は銅版家として名あり。20宇多源氏佐州役人附に「宇多源氏、町同心·中川丈右衞門、中川俊平」を擧ぐ。佐々木氏族ならん。21桓武平氏能登國能登郡(鹿島郡)酒井邑の永光寺は、應長元年、郡人滋野信直の妻平氏(中川頼親女)の施捨により、此の伽藍を創む(三州志、洞上聯量錄)と傳ヘらる。當國の社家に中川氏見ゆ。22加賀の中川氏第八、九、+、及び十三の各項に見ゆる中川八郞右衞門重政の嫡干宗半光重は、前田家の重臣にして、利家の第二女肅姫を娶る。光重·初めは信長に仕へしが、信長の薨後、來りて利家に仕へ、子孫世々加賀藩士となれり。末森記に「能登國七尾城には一國の人數過半を置き給ひ、本丸には利家卿舍兄前田五郞兵衛尉、云々、中河〓六」と。又三州志、鹿島郡小丸山城(所口村領)條に「前田安勝君、及び中川光重(〓六郞)をして守らしむ」と載せ、又越中國礪波郡「增山(龜山)城は、國祖·中川〓六をして守らしむ」と。又越後治亂記、天正十四年景勝上洛條に「增山の城主中川〓六殿云々」と見ゆ。又豐堡に中川武藏守を載せ、上野國志に「厩橋城は、天正十八年·松平加賀守の內·中川武藏守在番なり。同三萬石、平岩主計頭親吉城主たり」云々と。又三州志に「能美郡處空藏山城は、一に中川庄左衛門·居城すと。中川は藩臣中川善五郞の先祖也善五郞·元明八年絕炊也」と載せたり。而して加賀藩給帳に「五千石(片喰).人持、内千石與力知、中川八郞右衞門。千石(同)中川榮之助。二百石(同)中川文四郎四百石(片喰)中川甚之助。百五十石(同)中川玄右衞門。三百石(同)中川叟太郞」と見ゆ。猶ほ第十二項參照。又德川時代當國の人中川儀右衞門·賓萊紙を創む。23若狭の中川氏應仁私記に「中川八郞重泰(源)」と見ゆ。24〓和源氏賴範流丹波國桑田郡馬路邑の中川氏にして、當地方の豪族也。その古系圖は蠢魚の災に遭ひて分明を缺く點多きも、大體次の如し。滿仲七男(源頼範カ)中川賴口(頼弘カ)分〓(爲綱カ)中川重野-不明勇者ノ中川重口不明二百錢二

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

系図・系譜

関連論文

外部リンク