志深
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
和名抄、播磨圖美嚢郡に志深〓あり、之之美と註す。次に見ゆるが如く古き地名にて、古へは明石郡に屬す。と明石圖造の管内なりし也。後世志深庄と云ふ。縮見屯倉首1掃磨國赤石郡なる縮見屯倉の首長たりし氏にして、丹波道主家の一族也番磨風土記には志深村首に作る。〓寧紀に「赤石郡縮見屯倉首忍海部遺細目と載せ、古事記の〓事段には〓〓〓國の人民、名は志自牟」と見ゆ。志自牟は縮見に外ならず(大同類藥方四十六に「掃屠國明石郡忍海部保曾目」と)。億計(仁賢帝)弘計(顯宗帝)二王が、長くも馬甘、牛甘として、此の細目の家に潜み給ひし事は、三尺の章子もよく知る處なれば、此處に略す。蓋し此の功によりて忍海部(二王の御叔母·忍海皇女の御名代部)の伴造となり、氏姓を忍海部遣と賜へるなるべし。播磨風土記には「美嚢郡。美嚢と號する所以は、昔·大兄伊射報和氣命(履仲帝)、國を堺ひし給ふ時、志深里許曾社に到リ給ひ、勒して此の土·水の流れ甚だ美しき哉と宜ふ。故に美嚢郡と號す。志深里(土中中)、志深と號する所以は、伊射報和氣命、御食を此の井にし給ふ時、信深の貝·御飯宮の緣に遊び上りき。時に勅して、此の貝は阿波國和那散に於いて、我が食する所の貝かもと宣ふ。故に志深里と號く。於奚(仁賢)袁奚(顯宗)天皇等、此の土に皇せる所以は、汝父市邊天皇の命、近江國摧綿野に〓され給ふ時、日下部連念美を牽ゐて、逃れ來て惟の村の石室に隱れ給ひ、然る後、意美は自ら重罪を知り、乘馬等は其の筋を切斷ちて之を逐放し、亦持物の按等は盡く之を燒廢て、卽ち經死す。常に二人の御子等は彼しこ、此處に隱れ、東四に迷ひ給か。仍りて志深村首伊等尾の家につかはれ給ひき。伊等尾が新室の宴に因りて、二子等に燭せしめ、仍りて詠辭を擧げしむ。爾に兄弟各々相讓り、乃ち第立ちて詠ひ給ふ。其の舘に曰く『たらちし、吉備の鐵、
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)