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忌部(9)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

9越前の忌部古典に見えざれど、天平神護二年國司解に「上家〓戶主忌部牧人、同竹山、同〓戶主忌部大倉など見ゆるにより、多かりしものと考へらる。(第二十九項參照)。10淡路の忌部三原郡に忌部村あり、此の部のありし地なるべし。11忌部首忌部の總領的伴造家なり。古事記に「布刀玉命は忌部首等の祖也、」また神代紀一書に「忌部首の遠祖太玉命、」また神代並に天神本紀に「天太王命は忌部首等の祖」など見ゆ。太玉命の孫なるイムへ1人イムへ五九七 イムへイムへ(掛卷も恐き畝火の橿原の大宮に初國知らしし伊波體天皇の御世に、阿波忌部を率ひて東土に良地を竟む)彌麻爾支命-和詞富奴命-佐久耳命1飯長媛命由布津主角の聖色-阿加佐古命-玉久志古命古佐麻豆知命北方生徒葉耳命化者日置記亂也多良斯富命-麻豆奴美足尼-意保熊命此者日報管等成セ佐岐大人足尼·多比古足尼那美古古止福此者小山速麗也達奈豆-豊止美-字都庭鷹佐賀斯一子麿-名代正八位上-麻麻呂〓色弗-大岐廣國真禮部子孫在阿榮麿加米古子在在加奈萬呂方郡-衣屋咩と載せ、而して玉久志古に「瑞薩大宮御宇廿五年、倭毘賣命を御杖代として、天照坐大神を、佐久久志呂五十鈴川上に齋き奉る時、太幣を執持ちて供奉りき」と載1·ヘ五九八せ、又多良斯富に「卷向日代大宮御字天皇五十三年八月、伊勢に行幸し、轉じて東海に入る。冬十月、上總國安房浮島宮に至ります時供奉、安房の大神を御食都忌火を伊波比由麻々へて、神と坐奉り、神甞供奉リ始めき」とり又麻豆奴美足尼に「息長帶姫皇后新羅を征し給ふ時、伊伎島に天神國神を齋ひ奉り、己が命の扇肩に太强取懸けて、太幣持ち忌まはり、持ち淨まきり、造り仕へ奉りき」と。次に伎岐大人足尼に「輕島明朝より難波高津朝に至るまで供奉」と。次に多比古に「磐余稚櫻宮に供奉」とa那美古に「長谷の朝倉宮朝廷に供奉」と。達奈且に一五位達撫古に作る」と豊止美に「磯城金刺宮御宇朝廷、忌部首姓を賜ふ」と。次に宇都庭麿に「小治田大宮に供奉、大續冠を授け賜ふ」とa次に佐賀斯には「難波長柄豐前大宮御宇白雉四年、神祇頭を拜す」と。次に子麿に「或は子人と云ふ、出雲守、從四位上、氏上、養老三年関七月卒、子孫京に在り、神祇官に仕へ奉る。淨御原朝白風九年正月甲申、首を改めて連を賜ふ、同十三年十二月己卯、連を改めて宿禰姓を賜ふととその弟色弗天富命、神武朝に功ありて、大夫に列せられしと云ふも、其の後又振はざりしが如く、唯齋議の首として神祇界に於てのみ勢力を振ひし事上述の如し。但し記紀其の他に見えざれば、推定に過ぎず。孝德朝に至り、忌部首佐賀斯なる人·神宮頭となりしと云ふ(古語拾遺)「されど遂に中臣氏の右に出づる能はざりき。天武朝連姓を賜ふ。神名帳高市郡太王命神社四座あり。祖靈社なるが如きも、其の實出雲系の神社なり、說第廿四項にあり。安房國洲宮小野氏所傳齋部宿禰本系帳は後世の作なるや、察するに難からざるも、參考の爲に此處に引けば次の如し。掛卷くも畏き神倭伊波禮毘古天皇、畝火の橿原の大宮に御宇し給ふ大御世、上祖天宮命、阿波忌部を東土に分ちて麻穀を作らしめ、又天富命の祖神天太王命、天比理乃咩命の神蔭に、己が命の眞名子飯長姫命を御杖代と爲して齋き奉らしめ、天日鷲命の孫由布津主命を以て諸相副へ掌らしめき。高皇產靈神-天太玉命(亦名天神玉命、亦名玉櫛比古命、后神天比理乃咩命) 1天櫛耳命(米麻穀を植しめき)-天富命には「正五位上、神祇大副、大刀自天比理刀咩大神を齋き奉る。兄と同姓、大寶元年六月癸卯卒す。壬申の功を以つて從四位上を贈る」と見えたり。右の內、佐賀斯、子麿、色弗の三人は古典に徵證あり、又子鷹以下の系は第廿四項を見よ。12阿波の忌部首アハノイムベ條を見よ。13忌部毘登天平神護元年正月紀に忌部毘登隅なる者見ゆ、忌部首と異なる事なLo毘登はビト條を見よ。14忌部連天武紀九年條に「忌部首子首姓を賜ひて連と云ふ」と見え。間もなく宿禰姓を賜ひしが、天平寶字三年十二月紀に「外從五位下忌部首黑麻呂等若干人連姓を賜ふ」とあるを見れば其の支流の人には長く連姓を稱せしもありしものと考へらる。15阿波の忌部連アハノイムベ條を見よ。16忌部宿禰天武紀十三年條に「忌部連云々、姓を賜ひて宿禰と曰ふと見ゆ。其の後逸史引く類聚國志に「延曆二十二年三月、右京人正六位上忌部宿禰濱成等、忌部を改めて齋部と爲す、」と載せ、また貞觀十一年十月紀に「神祇大祐正六位上忌部宿禰高善、忌部を改めて〓部と爲す。其の先は高御魂命より出づる也」など見え、齋部宿福となれり。卽ち忌部首より連に、更に宿禰に、而して忌部を齋部と改めしなり。17齋部宿禰前述の如く忌部宿禰の後也、姓氏錄、右京神別に「齋部宿禰、高皇産靈命の子天太玉命の後也、」と。また古語拾遺に「高皇產靈神云々、男の名を天太玉命と曰ふ、齋部宿禰の祖也」と見ゆ。古語拾遺の作者齋部廣成は此の氏の嫡流の人か。18阿波の忌部宿禰アハノイムベ條を見よ。19安房の忌部宿禰アハノイムベ條を見よ。20紀伊の忌部宿禰栗栖氏文書に見え、その後裔を森氏と云ふ。續風土記に〓〓の祖を田屋介大夫散位忌部宿禰といふ、其の名、承安、建久の文書に見えたり」とあり。モリ條を見よ。21忌部造天平實字三年十二月紀に外從五位下忌部首黑麻呂等若干人·達姓を賜ひ、忌部首融麻呂等若干人·姓を造と賜ふ」と見えたれば、忌部造と云ふもありし也。22京師の齋部氏齋部宿禰の後裔なれど後世甚だ衰微す。外記日記に神祇少祐齋部宗重あり。又二條朝·神祇大祐齋部明友、少祐孝重に誣ひられ沈淪、後漸くにして氏長となる。其の後、土御門天皇の時、神祇權少祐明茂、後醍醐天皇の時、齋部憲親、神祇權大副親重あり。23安房の齋部氏齋部宿禰本系帳に據れは、京師齋部氏の後なりと稱す。今前述せし子麿以後の系を示せば次の如し。「子鷹-名代(正八位上)、その弟夫岐麿(正八位上、文武天皇四年二月、安房郡大領司に補せらる。安房大神奉齋、天平神議二年春二月死、)」その弟榮鷹、「岡本正喜院祖、洲崎宮祝部、役小角に隨ひて儈となる。榮滿と號す、」その弟加奈萬呂、「元正天皇養老元年春三月、奏して神殿を改造、同二年夏五月、班田使下向の時、勝が崎洲宮を神戶と定らる、五月廿日變國降伏の爲め、官幣を奉られき。同四年秋七月廿一日、勝崎浦に神奉の假宮を造り齋祭7、洲崎社と申し榮滿を視部としたり。後榮滿、役小角に隨て僧となる。又武藏のイムへ天九忌部造と云ふもあアハノイムベ條を見アハノイムベ條を見アハノイムベ條を見イムへイムへイムへ イムへ洲ヶ崎の岡に比理乃咩命を齋祭る。」その弟(衣屋咩)と載せて、夫岐麿忍嶋重七位下、中超超久大牌文書中美國安房総震大恨船人一庶呂「三田次-淨萬呂-井麻呂-當岑电房郡中價科從六枚下牛養-宅足女子冬麿十一等祭入口池雄·常雄茂義-正七位上安房屋大阪事務-久保局學校布人一滿足-得積-淨人-宗繼-良資主政天大阪お前大大震滿足(從七位下、郡司主政.天長五年秋九月死)-得積(正六位下、郡司振大領) 1淨人(從六位上、大領司)-宗繼-良賣-景知(宗繼以來代々郡司大領)-副義I.の弟最光、郡司大領、神余家の祖、神余〓に住)-統光(妻當國住人和田權守正忠を-義宗、弟義種し易義、弟義範-義唯ー義類ー義維-貞峯、弟貞〓(賴朝頃の人)-光成-光信-義俊、弟諸幾(その弟義角は岡崎氏祖) -義資-義信-義借-保義-義要-義胤-義春-義信-義臣-義俊-庶義、弟庶扶、第義仙-義郡-義州-義安」とあり。イムへイムへ800 24安房の忌部氏天日鷲命の後なる

系図・系譜

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