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得能(2)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

2氏人豫章記引く元曆二年七月二十八日、右大將賴朝卿御書に「得能冠者、云々」と。河野條を見よ。その後、太平記卷七に「伊豫國より早馬を立て、土居二郞、得能彌三郞、宮方に成りて旗をあぐ云々」と。土居條を見よ。愛媛面影に「得能城址は常石山と唱ふ。元弘年中、當國越智系圖に「通信-通俊(母玉の宮方土居次郞通治、得能彌三郞通言の二、常石山に橘籠る、時に長門探題上野介時直·中國より當國へ押渡り、其の勢一萬餘騎、久米郡星岡に陣して、當城を攻めんと謀りける程に、土居得能·探題の陣所に夜討せしかば、時直·大敗し、今治浦より小舟に乘り、主従六人·稀有の命を助りて、備後國に押渡り、夫より長門へ下りける由、太平記綱目に見えたリ2瑞岩寺は得能村にあり。河野通言の靈牌を安置す。其の法名を瑞岩寺殿前備中太守梅岑崇傳大禪定門と號す」とあり。されど、この元弘の忠臣得能氏を彌三郞通言に作るは誤にして、宜しく前項に據り、又太郞通綱と改むへし。延元元年、義貞に從ひ北國に下る途中、江州鹽津山に戰死す。太平記卷十六に得能備中守通益、卷十七には河野備後守通治、同備中守通綱に作る。その後、卷二十二に得能彈正(宮方十七騎の一、一騎當千の兵)あリ。通綱の子かと云ふ。この後、見聞諸家紋に、三越智氏得能十万佐々木本島なしとあり。又温泉郡西光寺は得能通綱創立と傳ふ。その他の事は、河野、土居條を見よ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

系図・系譜

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